本田直之グルメ密談―新時代のシェフたちが語る美食の未来図

食べロググルメ著名人として活躍し、グルメ情報に精通している本田直之さんが注目している「若手シェフ」にインタビューする新連載。本田さん自身が店へ赴き、若手シェフの思いや展望を掘り下げていく。記念すべき連載第1回は名古屋「レミニセンス」の葛原将季シェフ。華々しい経歴と確たる技術を持つ彼の未来の展望とは?

東西、2つの三つ星店のエスプリを受け継ぐ新進気鋭のシェフ

左:本田直之さん 右:葛原将季シェフ

本田:若手シェフにどんどん取材して、話を聞いていこうと思います。一番手はレミニセンスの葛原将季シェフ。まずは経歴知らない人もいると思うので、将季は何で料理人になろうと思ったの。

葛原:学生だった時に、かっこいいアルバイトがしたいなと思っていて。当時「名古屋マリオットアソシアホテル」ができたばっかりの時だったんですけど、そこで仕事がしたいって応募したんです。そうしたら厨房に配属されて。メインダイニング「パーゴラ」に行ってみたら、めちゃくちゃかっこよくて。高校生でよく知らなかったから、こんな世界があるんだと思って。そこから料理人になりたいって思うようになりました。その後「ミクニナゴヤ」に行ったんです。そこでまた「この料理、18,000円もするんだ」とびっくりしてしまって。

本田:食べたことがないみたいな。

葛原:当時は、日本ではミクニが一番なんだよって聞いて「ミクニナゴヤ」に入りたいと思ったんですけど、先輩にせっかくなら東京行けと言われて、最初「グランカフェ新橋ミクニ」に入りました。その後、配属された先の2店が次々と閉店になってしまって、また初めからやり直しとなったんです。その時、料理はもちろん大事なんだけど、経営的なことやホールの回し方なども学びたいと思って、株式会社ゼットンの「ヴァン・アベニュー・ド・シャンパーニュ」に飛び込みで入店しました。当時、ゼットンは上場する前のすごい勢いがある時期で、いいタイミングで潜り込めたと思っています。そこで経営的なこととかも学ばせてもらいました。その後、ちょっと天狗になっていたんですよね。一応料理長をやらせてもらっていたので。

本田:何歳の時?

葛原:24歳かな。料理長をやらせてくれ、僕なら10%利益率上げますとか言って。実際、すぐ上がったんですよ。無駄なものを無くして、原価落としたりして。

本田:そういう計算もできるようになっていた。

葛原:当時は、そういうことができるようなっていました。とにかく、すごい天狗で。東京でミシュランガイドが発売された年だったんですが、僕だったら名古屋で一つ星ぐらい簡単に取れるみたいなことを思っていたんです。東京のフランス料理のことを、まだ何も知らなかったのに。そんな時、常連さんに「天狗になっていないか。上には上がもっといるんだよ。東京でも一番に行きなさい」って言われたんです。

本田:ほほう、いいアドバイスするね。

葛原:そういう助言があって「カンテサンス」に行くことにしたんです。「カンテサンス」にも運よく入れて。当時は、毎日のように、3、4通、入店希望者の履歴書が届いていましたから。

本田:何が良かったのかな?

葛原:「カンテサンス」のシェフ・岸田さんと面接している時に「いつから来れるの」という話になったんですが「東京で住む家、契約してきちゃったんで。お金いらないんで、入れてください」って言ったんです。それでうまく潜り込めることができたと思います。

本田:まだ初期の頃だよね。それで何年勤めたの?

葛原:「カンテサンス」には4年ぐらいいました。当時「フロリレージュ」の川手さん、「オガサワラ レストラン」の小笠原さんといったそうそうたるメンバーがいて、今までと全然違うと衝撃を受けました。特に川手さんがすごいレベル高くて。この人についていこうと、ずっとひっついてました。それから、川手さんに気に入られるようになって、辞める時、どうしても岸田さんの隣で仕事がしたいから、僕を推薦してくださいって頼んだんです。その時、年も一番下で「カンテサンス」歴も一番短かったんですけど。

本田:もっと長い人もいた。

葛原:皆、長くて、しかも年上。飛び級でその地位についたんですけど、そうすると、ものすごいプレッシャーで。全員年上なのに、面倒見なきゃいけない。「ゼットン」での経験があったので、スタッフの管理や原価計算とかもやってました。数字を出して、岸田さん、これはこうだからこうした方がいいですとか、これはもったいないですとかいうのをやってましたね。数字の管理とかを全部するようになってから、岸田さんがちゃんと認めてくれるようになりました。

本田:それは認めてくれるよね。料理もできて、数字もわかるわけだから。あの頃のカンテサンスにいる人たちは、皆、フレンチを基礎から学んでいるような人たちじゃない? でも、抜いちゃったんだ。センスはあった?

葛原:センスというか、手先は不器用だったので、料理の他に意識が行くんですよね。「カンテサンス」に入った頃、本田さんの本に出会って、レバレッジシンキングとかを勉強して。そうしたら、料理を勉強しても、30歳になったら、皆、技術力が一緒なんだということに気がついたんです。それから、どんな人材が入ってきても、大したことない、僕が上だなと思えるようになりました。皆、料理の勉強はするけど、ビジネスの勉強とか、仕事をしていくにはどうしたらいいのかという勉強を全然していない。そういった勉強をすれば、簡単に上に行けるのに。

本田:その後、大阪、三つ星店の「HAJIME」に行く。

葛原:僕がいたのは2年ちょっとでした。「カンテサンス」で完全にでき上がっていたんで、すぐに2番手というか「カンテサンス」と同じポジションに就けました。

本田:「HAJIME」で 2年やった後、名古屋に。

葛原:30歳の誕生日に自分の店をオープンすることを決めていました。名古屋に帰ってきたのは29歳の時で、準備期間中は「あつた蓬莱軒」で、いろいろ鰻のことを教えてもらいました。