【森脇慶子のココに注目 第44回】「スポルカチョーネ」
独特のほんわかとした空気感、そして、気取らないけれどきちんとイタリアンな料理で用賀の地元民はもとより、多くの食いしん坊たちに愛されてきたイタリア料理店「スポルカチョーネ」。2022年4月、惜しまれつつ幕を下ろしたこの人気店がようやく復活。11月11日、立ち飲みの日にめでたくリニューアルオープンした。
場所は明大前。といっても、駅前の繁華街ではなく住宅街のど真ん中。スマホを頼りに歩くこと8〜10分。築80年の古民家が新生「スポルカチョーネ」だ。
イタリア国旗を掲げた玄関を開け、土足で上がるのを一瞬躊躇いそうになりながら、室内を進めば、そこは居間を改装したダイニング。以前よりもグッと広くなった店内にはテーブルが4卓。加えて、台所感の残る厨房に向けてカウンター席が用意され、奥に置かれた桐の古箪笥のスペースがある意味バーコーナー。ここで立ち飲みする強者もいるらしい。
書籍やスヌーピーグッズなどがそこここに置かれた室内は、ここだけ時が止まったような古き良き昭和のにおいが漂い、まるで井上さん家に招かれたような、不思議に心安らぐ空間となっている。
「繁華街ではやりたくなくて。ここは、用賀時代の常連さんのご実家だった物件なんです。お庭もあるし、なんかいい感じでしょう?」と、井上シェフ。再開までのおよそ半年間、知り合いの店で何度かポップアップ的に営業していたそうで、東京だけではなく石川県や広島県など地方にも巡業していたとか。巡業中の収穫は?の問いに井上シェフはこう答えた。
「いろんなところで仕事をしたおかげで、どんな場所や条件下でも『スポルカチョーネ』になれる。この空気感を生み出せる自信がつきました」
そう、移転で一番気になるのは、前の店と雰囲気が変わってしまうことだろう。新しい店になんとなく違和感を持ち、昔の方が良かったなーなんて思うこともしばしばだ。井上シェフ自身「(前と同じ)空気感を作り出すのは大変」と思っていたそうで、それは「スポルカチョーネ」を愛してやまない常連客も同じだったろう。
だが、それは杞憂に終わる。ひとたび井上シェフが厨房に立てば、何処であろうがその場はすぐに「スポルカチョーネ」に一転。目指す雰囲気を生み出せる自信が持てたという。
アラカルトで楽しめるスタイルも、お野菜主体の小皿おつまみや名物の超すり立てジェノヴェーゼなど人気メニューの数々も、ほぼ以前のまま。変わったことといえば、魚介料理が増えたことだろうか。というのも、イタリアで発生したアフリカ豚熱により、生ハムなどイタリア産豚肉加工品が輸入規制されたため、その穴埋め?的に魚介料理に力を入れることにしたそうだが、この魚介料理のクオリティがなかなか、なのだ。
聞けば、魚介は築地の「クリトモ商店」から天然ものをを仕入れているそうで、質の高さも納得。この日は、活け締めにした京都産のサワラがカルパッチョやソテーに。今がシーズンの香住のセイコガニはパスタとなってメニューを賑わせていた。
いずれも、王道かつシンプルな仕上げが井上シェフらしい。中でも、九州産の天然真鯛を使った「真鯛のアクアパッツァ」は、ほんの少しのニンニクとタイム、そして水とオリーブオイルに塩だけと極めて簡素。「鯛自体がおいしいから」とトマトもアサリも入らない、鯛のみの真っ向勝負で、鯛の旨味をストレートに引き出している。
また「スポルカチョーネ」といえば、ジェノヴェーゼのリングイネがおなじみだが、ベーシックなトマトソースのパスタも、井上イズムを感じさせる佳品だ。曰く「トマトソースのパスタって家庭の味でしょう。だから、麺もあえてメヌッチ社の、表面がツルッとし安価なパスタを使っている」そうで、いたずらに高級素材を使うのではなく、料理の持つ一つ一つの“らしさ”を損なうことなく、その良さを最大限に引き出そうと考えられている。
その姿勢はトマトソースも然り。で、ジェノヴェーゼソース同様、フレッシュ感を生かしたいからと作り置きをせず、オーダーが入ってからその場で作るといった塩梅。グアンチャーレのコクと玉ねぎの甘みがトマトソースの旨味を支え、毎日でも食べられそうなおいしさだ。
高校生でイタリア料理に目覚めた井上シェフ。それからはイタリアンまっしぐら。18歳で銀座「三笠会館」に入り、2年間修業した後は三田「ラ・ジョコンダ」を経て22歳でイタリアへ。ミラノとトスカーナで1年間研鑽を積み、帰国。その後は「イル・ボッカローネ」の大阪店の立ちあげなど数店で腕を振るい、最後は、修業先でもあった「ラ・ジョコンダ」のシェフに就任。この間、修業先で出会った様々な出身地のイタリア人シェフに学んだ郷土料理が、現在の井上料理の糧となっている。
本格的なのに家庭的。程よく力の抜けた料理は、ざっくばらんな中に、おいしさの本質が潜んでいる。