今から20年余り昔の話になるだろうか。六本木は芋洗坂にできた一軒の鮨屋が、当時、鮨好きたちの間でちょっとした話題を呼んでいた。そう、確か平成7年のことだったと記憶している。本郷から移転してきたその店の名は、鮨「山海」。

 

それというのも、大将・山崎正夫さんの握る鮨が一風変わっていたからだ。例えば、マグロの漬け。通常、江戸前鮨で“漬け”といえば赤身と相場は決まっている。だが、山崎さんは大胆にも大トロを漬けにしていたのだ。表面だけをさっと湯引きにして溜まり醤油に漬け込むのだが、僅かににんにくを利かせてある。その塩梅も実に絶妙。丸1日漬け込んでから取り出された、まるでローストビーフのようなその迫力には、誰しも目を見張ったものだ。また、冊取りした鰹や鰤は大きな塊のまま、生ハムよろしく横に薄くスライス。それを折り重ねて握る通称“ミルフイユ握り”に意表を突かれたこともあった。この名店が姿を消していたことに気づいたのは、4、5年も前のこと。いつのまにか、ビルの看板がなくなっていたのだ。

その「山海」の山崎さんが、「鮨弁慶 海」と名を変えて銀座に戻ってきた! 風の便り?にそんな噂を耳にしたのは、 夏も終わりかけの時分。しかも、握りのみ15貫で一万円の格安価格と聞けば、気にならないはずがない。やっとのことで、先日、久方ぶりの再会を果たした。

 

東銀座は歌舞伎座裏のまだ新しいビルの5階。エレベーターを降りると、懐かしい笑顔が待っていた。頭にやや白いものが増えてはいたものの、豪放磊落な人柄は変わらない。聞けば、今から6年前、新潟に移り、佐渡に本店を持つご当地の人気回転寿司店 「弁慶」直営のフラッグシップ店「鮨弁慶 海」で腕を振るっていたとか。曰く「新潟でも素敵なお客様にめぐまれて楽しかったですよ。佐渡の魚もいろいろ扱えましたしね。でも、やはり、鮨の本場、銀座から発信したい——そんなオーナーの意向もあって、東京に戻ってきました。オープンは今年の3月26日だったんです」

 

それにしても、だ。握り15貫で一万円は、昨今の鮨事情を思えばかなりの破格!
おまけに、新潟産ミニトマト「天使の唇」のマリネに焼き銀杏、鰤の塩麹焼きから牡蠣のオイル漬けまで付いてくるのだから、これは、もうちょっとしたお任せコースである。「1万円でもこれだけ食べられるっていうことを打ち出して、鮨の高いイメージを阻止したいですね」とは、嬉しい一言。

焼き銀杏、「天使の唇」のマリネ、鰤の塩麹焼き

牡蠣のオイル漬け

 

ある日の握りの内容はこうだ。

 

1.青森産ヒラメ
2.北海道産アオヤギ
3.ボストン産本マグロ赤身
4.新潟産ハチメ(メバル)
5.佐渡産鰤のスモーク
6.北海道産ホッキ貝
7.九州コハダ
8.千葉竹岡産サヨリ
9.新潟産アオリイカ
10.アルゼンチン産赤海老
11.ボストン産本マグロの中トロ
12.ボストン産本マグロの大トロ
13.対馬産穴子
14.北海道産バフンウニ
15.北海道産いくら
これにかんぴょう巻きと玉子まで付く大盤振る舞い。

本マグロ赤身、ヒラメ、アオヤギ、ハチメ(メバル)ホッキ貝、サヨリ、アオリイカ、コハダ、鰤のスモーク

 

山崎さん曰く「国産の極上の本マグロを使うと高くなる。だから、ここではボストンの天然マグロ。でもね、ちょっと手間暇かければ、充分美味しく食べられますよ」の言葉通り、大トロは 以前と同じくにんにく風味の漬けで登場。エシャロットを挟んで握り、カンボジアの生胡椒をのせてある。一方赤身は、切りつけてから酒、醤油、みりんを合わせた中に20分ほど浸すのみ、と、同じ漬けでもやり方を変える細やかさ。また、輸入ものの赤海老は丸一日昆布じめにして余分な水分を抜き、ややねっとり感を引き出す等々。一手間かけることで、素材を引き立て酢飯との相性を図っている。

赤海老、本マグロの中トロ、本マグロの大トロ、穴子

ウニ、いくら、かんぴょう巻き、玉子

 

他にも、脂ののった鰤の腹身は、2日間塩じめにしてスモークにして握り、10年もののタリスカーウイスキーと辛子を混ぜた溶き辛子をアクセントにのせたり、塩麹に漬けたウニを忍ばせ、その塩ウニの味で食べさせる生ウニ軍艦巻など、仕上がりのスタイルは、ややアバンギャルドであっても手法と考え方は江戸前。そのさじ加減も老手なればこそ。

 

ちなみに、おつまみをいろいろ楽しめるおまかせコース2万円もある。

取材・文/森脇慶子

撮影/飯貝拓司