〈僕はこんな店で食べてきた〉

「西麻布のバー」が新しかったころ

 

始まりは1986年6月だった。

 

西麻布の交差点から広尾方面に5分ほど歩いた交差点の角の小さいビルの3階に「ウォッカトニック」というバーがオープンした。わずか6坪、6席ほどのカウンターとふたりがやっとのソファしかなかった。店主はA氏。東京の遊び人が当時一番通っていた「クラブD」「ブラッセリーD」でバーテンダーとして長く勤め、満を持した独立だった。

いまでは星の数ほどある西麻布のバーだが、信じられないだろうが当時は「ル・バー」や「ショットバー」など、片手で数えられるほどしかなかった。というのも、西麻布にバー文化を根付かせたのは、ウォッカトニックのA氏だったからだ。
僕は彼を高校生の頃から知っていたので、西麻布に開店することも知っていた。だが当初は、客は数えるばかり。カウンターに置かれた双眼鏡で通りを歩く女性グループを見ながら、「彼女らが入ってこないかなあ」と話していたものだ。

 

が、しばらくして有名カメラマン、芸能人が訪れだし、ウォッカトニックはブレイク。89年には南青山に移転し、数年して西麻布交差点近くのビル地下に移った。西麻布は駅から歩くには遠く、タクシーでしか移動できない。が、そういうところが隠れ家感をかもし出すには好都合だったんだろう。以前にも増してウォッカトニックは盛況となった。

いまも同じ場所にあるが、実は経営者はA氏ではない。その経緯は省くが、彼がかかわらなくなってからは僕もなんだか足が遠のいてしまった。バーの雰囲気が変わったわけではないが、僕にとっての「ウォッカトニック」は、やはりA氏のいたときのウォッカトニックだったからだ(この原稿が配信される前日に数年ぶりに訪れた。なつかしさもあったが、いいバーだった)。
というのも、80年代の「バー」といえばホテルか銀座や赤坂のオーセンティックなバーくらいで、あとは尾崎さんが率いる神宮前の「バー・ラジオ」くらいしか、有名ではなかった。

そんな状況の中、ホテルや銀座ほど格式ばらず、ラジオほど客を選ばないバーとして頭角を現したのが、ウォッカトニックだったのだ。店名の由来は店の名物のウォッカトニックから。トニックと言っても、トニックウォーターだけでは甘過ぎるというのが彼の持論で、実際は炭酸と半々に割っていた。

全盛期は芸能人の巣窟のような状態で、写真週刊誌にも書かれなかった数々のカップルと遭遇したし、一時は六本木ヒルズにも支店を構えた。
ウォッカトニックが流行ったのは、酒のうまさもさることながら、スタッフのホスピタリティに尽きる。それはA氏の従業員教育の賜物なのかもしれないが、サービス精神にあふれるウォッカトニック出身者は次々と独立し、この30年で西麻布、六本木など港区界隈に多くの店を作った。

 

ウォッカトニックのDNA

一号店でA氏と一緒に働いていたKさんが西麻布の地中海通りに蕎麦を食べさせるバー「ソーバー」(現在閉店)を開いたのが最初で、いまKさんは「THESE」「よしの」「Boctok」などのバーを経営している。なかでも「THESE」はその後流行ったライブラリーバーの嚆矢。数百冊の本が棚に並び、本を読みながら酒を飲めるバーとして話題を集めた。僕も数冊寄贈した記憶があるが、まだあるだろうか。

THESE 出典:北海道でっかいどうさん

日赤通りには「ヘルムズデール」がある。南青山から西麻布に移転していたときにまだ20代初めだったバーテンダーのMさんが、シングルモルト好きの経験を生かして、最初はウォッカトニックの支店として開業。のちに買い取って自身の店として営業している。
フィッシュ&チップスやハギスなどのアイリッシュパブ名物のフードが美味しく、シングルモルトだけでなくビールの種類も豊富で、深夜までにぎわっている。

ヘルムズデール 出典:ユーキ。さん

六本木ヒルズにあった支店で活躍したバーテンダーの独立店では、六本木「ドゥ・ノット・メイク・イット・ア・ワンナイトスタンド」ががんばっている。深夜まで営業していて小腹がすいたときにはつい炭水化物を頼んでしまう。おすすめは、カツサンドとナポリタンだ。
そのほか、六本木「カスク」「センツァクラバッタ」、西麻布「ファズ」などウォッカトニック出身のバーは数多い。ほんの数カ月いたり、孫弟子を含めると途方もない数で、そうしたバーテンダーたちが西麻布周辺で開業したから、この場所がバーの聖地になったわけだ。

そして数あるなかでも、一番A氏のいたときのウォッカトニックの雰囲気が残っているのが西麻布「Bar Gojyuni-Ban」。不思議な店名だが、これもA氏に由来する。彼は100種類を超えるオリジナルカクテルを作ったのだが、そのなかでもっとも人気だったのが52番目にできたカクテルだったのだ。ウォッカにグレープフルーツと炭酸を加えた飲みやすいロングカクテルで、僕も頼むことが多い。

かつての営業時のBar Gojyuni-Banのウォッカトニック 出典:jetsailさん

Bar Gojyuni-Banはもともとウォッカトニックのディフュージョン版としてオープンしたが、いまはA氏とサービスを長くともにした女性が西麻布で経営。長いカウンターとテーブル席、ソファ、個室まであって使いやすい。
一時期、飯倉「キャンティ」出身のシェフが厨房にいたこともあって、イタリア料理の評判もよく、芸能人や財界人が夜遅くまでにぎやかに酒を飲んでいた。
ところが入居しているビルの取り壊しでこの夏に閉店。なかなか移転先をみつけられない状況が続いていたが、ついに元麻布に決定したというニュースが飛び込んできた。12月中旬には営業開始だという(*)。

今度の場所も、駅からはちょっと離れた裏通り。ウォッカトニックのDNAを継いだ店が再開するのはうれしい限りだ。

*Bar Gojyuni-Banは12月10日オープン予定。
東京都港区元麻布3-10-23 麻布ネストビル1階
tel.03-5413-5052
営業時間:18時~