僕はこんな店で食べてきた
出版界きってのグルメでもあり、「日本ガストロノミー協会」「軽井沢男子美食倶楽部」の会長でもある柏原光太郎さん。編集者としての仕事をきっかけに、どんどん食の世界に傾倒していったという柏原さんの“食歴”はそのまま日本の外食カルチャーの変遷に当てはまる。本連載ではリアルタイムで美食体験を重ねてきた人だからこそ知る、“深遠なる食の世界”をひもといてもらう。
このストーリーを読めば、次の予約がさらに楽しみになることは間違いない。
第2回 はじまりはスペインだった(前編)
今年1月から友人たちと「一般社団法人 日本ガストロノミー協会」を立ち上げた。スペインのバスクの美食都市、サンセバスチャンには100年ほど前から男性の料理好きが集まる会員制組織「美食倶楽部(sociedad gastronomica)」があり、いまや100以上の倶楽部が存在しているという。
もともとサンセバスチャンには家は女性が守るものという暗黙の文化があり、それがゆえに、料理好きの男性でも厨房には入れてもらえなかった。そのため、逆に男性だけで外にキッチンを借り、料理を楽しむ組織が広がったのだという。
いまの日本も美食流行りだが、それは食べることが中心。作る楽しさももっと広げたいと思っていたところに、美食倶楽部のコンセプトがぴったりなことに気づいた。そんな話をしていたら、同好の士が集まり、都内にキッチンスタジオを借りることができ、日本初の美食倶楽部を立ち上げたというわけだ。今後どういう活動をするかは未知数だが、僕にとってスペインは「食の原点」ともかかわっているだけに思いもひとしおだった。
学生時代に出会ったスペインバル「ポコ・ア・ポコ」
僕が「食」に積極的に興味を持ったのはいつかと考えると、学生時代のスペイン貧乏旅行に繋がる。もともとは大学2年生のときのヨーロッパ一周旅行が始まりだったが、「1日5000円あればヨーロッパを旅できる」と書いてあった『地球の歩き方』をすっかり信じた僕は、イギリス、ドイツ、イタリアをまわったあたりで予算をオーバーしてホームシック寸前。それを救ってくれたのがスペインだった。民宿が一泊600円、ワインが一本ついた夕食も同じような値段で、1日2000円もあれば御の字。すっかりスペインが好きになり、大学時代はアルバイトでお金が出来たら出かけていた。
それと同時に都内のスペイン料理屋さんを開拓したのだが、そこで出合ったのが青山三丁目のスペインバル「ポコ・ア・ポコ」だった。はじめて訪れたのは83年、大学2年生のときだったと思う。
開店したのは80年代前半。まだ都内に「バル」なんて一軒もない時代だった。4坪ほどの小さな店でカウンターが7席だけ。調理用ガスコンロもなく、調理器具は電磁調理器とオーブンだけだったが、そこから魔法のようにうまいスペイン料理が繰り出されるのだ。
オーナーは西野夫妻。ご主人の守さんは元カメラマンで、世界中を撮影しているうちにスペインの魅力にはまったのだという。料理は独学だが、ほかのスペイン料理店にはない料理が魅力の店だった。
たとえばトルティージャ。彼のレシピによれば、オリーブオイルで揚げ煮したジャガイモと卵をごく弱火で60分ほど煮込み、中までしっかり火を通すもので、作って2日目くらいが一番うまい。
タラのコロッケもうまかった。バカリャオと呼ばれる干しタラを掃除し、コロッケにしたもので、タラの旨みとジャガイモが合わさって、これまで食べたことがない味だった。
もちろん生ハムもあったし、僕はここで初めて食べた。
当時はスペインから生ハムを輸入できなかったため、生ハムを置いてある店自体がほとんどなく、ポコ・ア・ポコも埼玉で生ハムを作っているOさんのものだったが、いままで食べてきたハムとはまったく違う、これまたいままで食べたことがない味。それでいえば、赤ワインが抜栓してから時間を置くと味が変わることを初めて知ったのもこの店だった。
とにかく、普通の大学3年生にとっては驚きの連続だったが、そこに集う常連たちも不思議な人々だった。
たとえば太平洋戦争で不遇の死を遂げたY大将の息子や、生まれたときから家に料理人がいて、自身もフランス料理店を経営しているH氏、中国茶人としても有名なカメラマンのK氏、90年代に活躍した食ライターのO氏などだ。だれもが食はもちろん、教養と呼ばれる分野に関する造詣が大変深く、僕は教えられることばかりだった。
なかでも銀座でフランス料理店「ドデュ・ダーンド」を経営していたHさんには、大学の同窓という縁もあって、仲良くさせていただいた。彼はほぼ毎日、ポコ・ア・ポコで料理とワインを飲んで常連と語り合ったあとは、ひとりで千駄ヶ谷にあったバー「ラジオ」に顔を出すのが日課だった。
若造は立ち入ることのできない伝説のバー
ラジオは1972年にできたバー。オーセンティックバーは銀座以外にはほとんどなかった時代に、売れっ子デザイナーの杉本貴志さんが設計したスタイリッシュな内装が有名で、わずか9席の店に夜な夜な東京の最先端文化人が集う店として知られていた。僕も主人の尾崎浩司さんが出した『バーラジオのカクテルブック』を読みながら、いつか訪れたいと思っていた。
そんな縁があるなら一度行ってみたいと話したら「君みたいな若造がいったって、あそこの店はいれてくれないよ。席が全部空いていたって、『当店は満員でございます』と拒否されるのがオチだ」と、つれない返事がかえってきた。なにくそと思って一度は地下にあるバーの前にまでいったが、無言の圧力を感じて、中に入ることすらできなかった。
ところがある日、Hさんの機嫌がよかったからか、「そういえば君はラジオに行きたいといっていたね、これから行くかい」と誘ってくれたのだ。そのとき僕はガールフレンドと一緒だったが、彼女もはじめてということで小躍りしながら店に向かった。
「Hさん、いらっしゃいませ」
と常連扱いされる彼にまぶしい限りだったが、連れの彼女が背伸びして「私に合うカクテルを」と注文したところ、「マニキュアの色にあわせて作りました」と真紅のカクテルが出てきて驚いたことを覚えている。
ちなみに最初の「ラジオ」はもうないが、2度移転して「3rdラジオ」は青山で健在。そして最初の「ラジオ」の話は、スタッフだった六本木「さだ吉 鎹」の三浦さんが詳しいだろう。
後編につづく
こうして食の世界にどんどん踏み込んでいく若き日の柏原氏。さらなる食の体験を重ねるエピソードは後編で。
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