本田直之グルメ密談―新時代のシェフたちが語る美食の未来図

食べロググルメ著名人として活躍し、グルメ情報に精通している本田直之さんが注目している「若手シェフ」にインタビューする連載。本田さん自身が店へ赴き、若手シェフの思いや展望を掘り下げていく。連載第6回は渋谷「SHIZEN(シゼン)」の國居 優(くにすえ ゆう)シェフ。薪火と発酵を融合させ、既存のしょうゆや酢を使わない料理は日本料理の新たな可能性を見せてくれる。その國居シェフが描く未来の展望とは?

海外で見つけた新たな料理の可能性

左:國居 優さん、右:本田 直之さん

本田:もともと料理人を目指したのはどういうところから?

國居:志すようになったのは高校3年生の頃です。当時は、全く料理はしていなくて、食べる方が好きでした。父が食べることがすごく好きで、外食にいろいろ連れていってもらったりしていました。進路を決めるとき、自分が将来何をやりたいかを考えたら、やっていて一番楽しいことをやろうと思ったんです。バスケットボールの次に好きなのが食べることで。飲食店ってすごくポジティブな空間じゃないですか。おいしいものを食べに行くとき、ネガティブな感情を持っていく人はいません。キラキラ輝いている場所。そこで料理をやってみたいと思いました。そのときは憧れだけで飛び込もうとしていて。厳しくて、途中で心が折れたら、大学に行き直そうぐらいの気持ちでした。

本田:最初に行ったのは料理学校。なんで日本料理だったの? 大体、皆、フレンチを選ぶよね。

國居:洋食を選ぶ人が多かったですけど、子供のときから圧倒的に和食が好きだったので。

本田:学校を出た後「懐石 小室」に。

國居:すぐにでもいろんなことを学びたい、やりたいという気持ちが強くて。「小室」は基本的に5年しか働かせないというスタイルで、若い人が次々と入れ替わっていくんです。

本田:5年やったら、次に行く。おもしろいね。どのぐらいまでやらせてもらえるの?

國居:基本的に全部やれると思います。先輩方がトントンと抜けたこともあって、僕の場合は、正確には5年満たないぐらいです。1年目が追い回し(雑務担当)で接客もして、それから揚げ場と水菓子もやらせていただきました。その次が焼き物、それから煮方に。

本田:結構、ペースは早いね。なかなかそこまでやらせてくれないところが多い。

國居:仕事は正直過酷でした。でも、早くにいろいろやらせてもらえることに魅力を感じていました。

本田:その後、アルザスの日本領事館で公邸料理人になった。何か募集を見て応募したの?

國居:ご縁で誘っていただきました。僕の料理を食べてもらうことなく決まったので、「懐石 小室」の名前のおかげだなと思います。そのとき初めて自分で献立を常に考え、食材を仕入れ、調理するまでを一貫してやりました。すごく良い経験になりましたね。

本田:しかも海外だもんね。近くのマルシェとかで買うの?

國居:基本マルシェで買い物をしていました。食材がパリとも全然違うんです。海が遠くて、魚の鮮度がどうしてもよくない。生で食べられるのはマグロとサーモン、スズキぐらいでした。「小室」はすごく良い食材を使っていたので、いかに食材に恵まれていたのかを痛感しました。

本田:よく聞くのは、料理人が海外に行ったときに二つのパターンに分かれる。例えば、自分が使いたい調味料がない場合、それで料理がうまくいかなくなる人と、自分で調味料を作っちゃえばいいじゃんみたいな人とに。自分で作る方に行ったんだね。

國居:最初は何もできないと思っていました。その“できない”という感覚があったからこそ、たぶん、今、発酵調味料に興味を持って、作りたいと考えるようになったと思います。

本田:それからストラスブールでは薪料理にも出会ったよね。

國居:料理店で普通に薪を使った煮込み物とかがありました。田舎の熱源として薪を使っているんです。ずっと炭しか触ってこなかったんで、薪の熱源の温かみのような、炭とちょっと違うところに魅力を感じましたね。でも、ストラスブールでは一度も薪で料理を作っていないんです。それで、帰国したタイミングで調布にある「Maruta」に声を掛けていただいたので、そこで勉強しました。そうしたら、想像以上に薪の魅力に引き込まれました。

本田:日本に帰ってきたのは何年?

國居:コロナ禍で帰ってきたんで、2020年です。

本田:「Maruta」には2年ぐらいいたの?

國居:1年と少しぐらいです。「SHIZEN」をオープンすることがとんとん拍子に決まって、その準備を兼ねて、「Maruta」を辞めて、系列になる酒井商会の「創和堂」で働くようになりました。

本田:早くに「SHIZEN」のオープンが決まったんだね。