〈福岡の麺料理〉
「焼うどん」の名店5選ではあえて紹介しなかった「だるま堂」は、北九州のソウルフードとも言える「焼うどん」発祥の店と言われている。今回は「焼うどん」で北九州を盛り上げる「小倉焼うどん研究所」のみなさんが昨年の7月に経営を受け継いだ、小倉発祥「焼うどん」の元祖「だるま堂」をご紹介!
教えてくれた人
いわくまみちこ
福岡県北九州市出身。関西の大学卒業後、福岡へUターン。地元の情報誌で旅企画を担当し、九州中を奔走する。2011年より編集とデザインの商店「マイアミ企画」として活動をスタート。企画・編集・ライティングを中心に、撮影、デザインなどパラレルに活動中。主な取材・執筆媒体は、タウン情報誌やウェブメディアなど。守備範囲は、旅、食、暮らし、まちづくり。
北九州を代表するうどんと言えば! 小倉発祥「焼うどん」
うどん発祥の地とも言われる福岡。なかでも北九州には、小倉肉うどん、豊前うどん、かしわうどん、資さんうどんに代表される人気チェーン店など、個性豊かな「うどん」が数多く存在している。そして北九州を代表する「うどん」と言えばやはり、小倉発祥「焼うどん」。小倉駅周辺だけでも実に40店舗以上で、バラエティ豊かな焼うどんを味わうことができる。
その発祥とされるお店が、終戦直後の1945年に小倉駅のそばにある鳥町食道街で創業した「だるま堂」。初代店主の弁野勇二郎さんが、入手困難だった中華麺の代わりに、配給された干しうどん(乾麺)を使って、焼きそばならぬ「焼うどん」を提供したのがはじまり。
昭和30年頃になると鳥町食道街は外食の人気スポットとして賑わい、次第に小倉の飲食店の多くが焼うどんを提供するようになった。
「小倉焼うどん研究所」が「だるま堂」閉店の危機を救う
創業から70年以上、変わらぬ味を提供してきた同店だが、令和元年の年末から約半年間、休業したことがあった。初代亡き後の60年、店を守り続けてきた坂田のおばちゃんこと、チヨノさんが亡くなったのだ。そこで立ち上がったのが、現在「だるま堂」を運営する「小倉焼うどん研究所」。
「小倉焼うどん研究所」とは、だるま堂が生んだ「焼うどん」を通じて、北九州の魅力を発信し、街の賑わいをつくろうと活動してきたまちづくり団体。2001年に所長である竹中康二さんが立ち上げ、大学生から社会人まで現在約20名が参加している。
発足当時ホテルマンだった竹中さんは、旅行者におすすめできる北九州のグルメが少ないことに頭を悩ませていた。「博多ならもつ鍋やラーメン、下関にはフグや鯨などがあります。北九州にも合馬のたけのこや小倉牛などがありますが、高級食材なので気軽には薦められません。そこで、小倉には焼うどんがあると思いつきました。短時間で食べられるし、発祥の店で食べれば思い出話にもなる。大きな可能性を感じたのです」
北九州が焼うどん発祥の地であることは知っていても、そこにまつわるストーリーや、どこで食べられるのかを知る人は少なかった。そこで竹中さんは「だるま堂」から生まれた北九州の誇るべき食文化を全国にPRし、観光やまちづくりのコンテンツとして活用しようと考えた。
ちょうどB級グルメブームが盛り上がってきた頃で、全国のグルメイベントに小倉発祥「焼うどん」を提げて参加。2002年には「富士宮やきそば」とのバトルに見事勝利し、2012年には「B-1グランプリ」北九州大会の誘致にも成功した。ほかにも、市内の飲食店へ焼きうどんの提供を呼び掛け、MAPの制作を行うなど精力的に活動。熊本地震や九州北部豪雨などの災害が起きた際には、被災地支援活動にも携わっている。
発足から20年が経ち、研究所の活動によって小倉発祥焼うどんは、全国的に知られるようになった。しかし世間では次第に「B級グルメブーム」が下火になっていき、ここ数年は、活動意義を模索していたという。
そんな折に飛び込んできたのが「だるま堂」継承の話。2018年に、初代店主の親族から「坂田のおばちゃん」が高齢であるため、将来店を継がないかと相談を受けたのだ。
焼うどん発祥の店を受け継ぐ……。それは、研究所の今後のあり方として、意義のあることに思えた。「いつかその時が来たら」と覚悟を決めた矢先に、チヨノさんが倒れ、3ヶ月後に亡くなってしまう。生前「死ぬまでがんばって店に立つよ」と言っていたチヨノさん。こんなに早く「その時」が来るなんて……竹中さんたちは慌てた。
これまでに「だるま堂」の焼うどんは、何度も口にしてきた。その上で、研究所として20年間、イベントで焼うどんを焼き続けてきた経験もある。しかしチヨノさんから直接調理法を教わったことはなかった。「老舗の味を受け継ぐ重圧を、その時初めて感じました」と、調理の責任者である塚腰店長は言う。