シェフが仕掛ける“障壁”を乗り越えてその味に辿り着く。至高のパティスリーが町田に誕生

新宿駅から小田急線の快速急行で約30分。東京・町田に独創的なケーキを出すパティスリーがオープンしたとの情報を得て、早速向かうことに。町田駅の南口を出て中央通りを進み、しばらくするとお店はあるはずだが……。すると現れたのは、角地に佇む黒い2階建ての建物。

目立つ看板もなく、ショーウィンドーの左上に小さく店名が掲げられているのみ。知らなければ、パティスリーと気づかず、素通りしてしまいそうな外観だ。

ペンキで白く塗られたドアを引いて中に入るも、勢いよく入ろうとしてカウンターにぶつかりそうになる。奥行はおそらく1mもない。カウンターの右にはショーケースがあった。パティスリーのショーケースといえば、真っ赤な苺を飾った「ショートケーキ」、金箔をあしらった「チョコレートケーキ」、子供たちが好きな「シュークリーム」などが列をなして並べられ、その横で、華やかにデコレーションされた「アントルメ」がゴージャスな雰囲気を演出する、というのが一般的だが……。

こちらのショーケース内にあるのは、上段に1本ものの「ガトーショコラ」。中段、下段にプチガトーが4種類ずつ、合計8種類のプチガトーの見本がひとつずつ皿にのせられてディスプレイされているのみ。特徴的なのは、それぞれのケーキの前に断面図が図解され、構成が詳しく記されていること。

白が基調の落ち着いたサロンでまったりイートイン

2Fでイートインできるということなので、断面図の説明を頼りにケーキを3種類選ぶ。ショーケースの右手にある階段を上ろうとして見上げると、傾斜角60度ぐらいはあろうかという急傾斜。なんと、安全のため中学生以下はご遠慮くださいとの注意書きが……。

2階のサロンは白を基調にまとめられ、白い壁、高めの天井。木のテーブルとイスのセッティングで、シンプルながら清潔感がある。椅子は一脚ずつ異なっており、好きなデザインのものを選んで座ることができる。天井に取り付けられたスピーカーからボリュームを抑えた音楽が流れる静かな空間。

メニューを見ると、コーヒーは、東京・奥沢の「チャノコ コーヒー ロースタリー」のアンカドオリジナルブレンド。紅茶は、兵庫・芦屋「ウーフ」のオリジナルブレンドと、飲み物にもこだわりがうかがえる。飲み物を注文し、しばらくするとケーキが運ばれてきた。

口福度満点! 綿密に計算されたプチガトー

「アール」600円

まずは、鮮やかな紅色のハート形のプチガトー「アール」から。柔らかな食感のムースが口で溶け、優しく甘さを抑えたミルクチョコの味わいがふわりと広がり、スムーズに消えていく。

これに、紅茶(アールグレイ)のブリュレの卵のコクや旨味、バタークリームの重厚な味わいが続く。ミルクチョコのクランチが食感にアクセントを添えてくれる。底生地は、アーモンドのダックワーズ。

「アリエ」600円

次に、艶やかなキャラメル色の球体のプチガトー「アリエ」。ヘーゼルナッツとミルクチョコのムースの濃厚な味わいと、まろやかな酸味を放つレモンクリームが相性よく、しっかりとキャラメリゼされたザクザクした食感のマカダミアナッツを包み込んでいる。

底生地は、レモンとヘーゼルナッツのダックワーズ。

「アンカド」700円

最後に、光沢のあるグラサージュショコラを上から流した、お店の名を冠したスペシャリテのプチガトー「アンカド」。チョコレートの味わいがしっかりと感じられる濃厚なムースの味わいを堪能していると、バニラキャラメルの味わいがやってくる。そこに、さらに旨味のある甘さをもったハチミツのキャラメルが追い打ちをかけ、カシューナッツのキャラメルクランチの食感も相まって、味わい・食感ともにピークを迎え、「口福度」は最高潮に達する。

最後は、口溶けよく、やや苦みのある、小麦粉不使用のココア生地「ビスキュイ・オ・ショコラ・サン・ファリーヌ」とショコラのダックワーズが引き締め、フィナーレをかざってくれる。

 

こちらのお店のプチガトーの特徴は、各パーツの相性の良さ、食感のアクセントに加え、ムースやクリームの口溶けの違いを利用して、味わいにストーリー性を持たせている点にある。ひとつひとつのプチガトーから、まるでページを1枚ずつめくりながら本を読み進めるように、シェフの世界観が伝わる、極めて精緻に計算されたケーキ群である。

 

そして、それを支えているのは、徹底した温度管理・品質管理であろう。設定温度でムースやクリームの柔らかさ・口溶けは大幅に異なるからだ。サロンで供されたケーキはいずれも、見事なまでに最高のコンディションに調整されていた。

 

ふと気づくと、サロンはほぼ満席状態。落ち着いた雰囲気の顧客たちが静かにケーキとお茶を楽しんでいる。常識破りのお店の構造。精緻に計算されたケーキ群。徹底した温度管理と品質管理。こちらのシェフは一体、どのような人物なのだろうか? パティシエを目指したきっかけから、パティスリーを開くまでのお話をうかがった。

すべてはお客さんの「こんなの今までに食べたことがない!」という感動のために

 

猫井先生

小さい頃からケーキが好きだったんですか?

 

山根シェフ

出身は町田なのですが、父親が公務員で転勤族だったので、小さい頃は山梨やら茨城などを転々としました。中学生の頃、また町田に戻ってきて、高校も町田の都立高校に進学しました。実は中学の頃まで、ひどいアトピー性皮膚炎に悩まされていたのですが、高校に入ったら、環境が変わったせいか治まりまして、嬉しくて遊び回り、かなり、やんちゃしました(笑)。親の言うことも聞かず、学校にも行かないようになって、知り合いの家で働くようになりました。そこが、たまたまケーキ店だったんです。

「パティスリー アン カド」のオーナーパティシエの山根悠樹さん
 

猫井先生

それがパティシエを志すきっかけだったんですか?

 

山根シェフ

いえいえ、当時15歳くらいですからね、まだ、そんな志はなかったです(笑)。いやいやながらも、2〜3年するとケーキ作りもそれなりに覚えて。17歳の時だったと思いますが、ショートケーキを作って、家に持って帰って妹に食べさせたら、すごく喜んでくれて。自分の作るお菓子でこんなに人を喜ばせることができるんだって。それからですね、ちゃんとケーキ作りを勉強しようと思ったのは。20歳のときに、やっぱり専門学校に行ってキチンと勉強しようと思って日本菓子専門学校に入学しました。

 

猫井先生

本格的にパティシエへの道を歩み出されたわけですね。

 

山根シェフ

ええ、おかげさまで(笑)。在学中から「ル パティシエ タカギ」でバイトを始めて、卒業後、そちらに正式に就職しました。そこで3年半くらい頑張りましたね。その後、横浜・みなとみらいにある、「パンパシフィック横浜ベイホテル東急」(現、横浜ベイホテル東急)に移りました。タカギにいるときに、大会に出品してみたいなと思うようになりまして、それで、自分の時間がとれるホテルを選んだわけです。

 

猫井先生

大会には出品できたんですか?

 

山根シェフ

はい。2010年、神奈川県洋菓子協会のグランガトーで「銅賞」をいただきました。続いて、2011年、神奈川県洋菓子協会作品展で「議会議長賞」をいただいて、ジャパン・ケーキショーに出品してプティガトーで「銀賞」をいただきました。それぞれの作品が、今の「アンカド」「アリエ」、夏季限定販売の「エクラ」ですね。

左手前から時計回りに、「アール」「アンカド」「アリエ」
 

猫井先生

素晴らしい! その後、渡仏経験があると聞きました。

にゃあたxxx
写真左が「エクラ」。販売は9月10日で一旦終了している。   出典:にゃあたxxxさん
 

山根シェフ

2014年の9月にフランスのニースに行きました。ワーキングビザがなくて正式に働けなかったので、専ら語学学校に通う毎日でしたが、ニース・カンヌマラソンに出たのは、いい思い出ですね。

 

猫井先生

帰国後はどちらへ?

 

山根シェフ

タカギ時代の同僚が大分で店を開くというので手伝いました。「リンクロック」というお店に2年ほどいましたね。その間に奥さんとも出会いました。この店のインテリアなど内装やデザインのコンセプト、販売関係は、全部奥さんにお願いしています。

 

猫井先生

大分まで行った甲斐がありましたね(笑)。お店のオープンはスムーズにいきましたか?

 

山根シェフ

2017年に東京に戻り、品川のレストランで働きながら開店準備にとりかかったのですが、一度融資を断られて皆さんにご迷惑をおかけしたり……。それで、創業スクールに通ったりと、ホントに色々なことがありました。

 

猫井先生

オープンは、今年2019年2月21日でしたね。お店のコンセプトがあれば教えてください。

 

山根シェフ

パティスリーって、ケーキがおいしいだけじゃダメだと思っているんですよね。実は、渡仏の準備をしている際に、あるケーキ店の手伝いをしていたんですが、すごくお菓子はおいしいし、値段も安く提供していたのに結局潰れてしまったんです。その時、その店ならではの独創性というか特徴がないといけないと痛感したんです。この店はまず、見つけにくいでしょ。で、狭くて、入りにくい。そこへきて、ショートケーキとかロールケーキとかわかりやすいケーキも置いていない。おまけに値段も安くない。まあ障壁だらけです(笑)。でも、だからこそ、そんな数々の障壁を乗り越えて、この店のケーキを求めていただいたお客様には、「こんなの今までに食べたことがない!」と思っていただけるような、今までに味わったことのないような最高の感動をお届けしたいなと。それが、このお店のコンセプトですかね。

 

猫井先生

障壁を乗り越えて、お客様になってくださる方がいないと商売になりませんね(笑)。

 

山根シェフ

そのとおりです。なので、経営者としては相当な覚悟のいるコンセプトです(笑)。

 

猫井先生

ところで、ショーケースには、どうしてサンプルしか並べられないのですか?

 

山根シェフ

生菓子はショーケースに入れておくと、表面が乾燥してきますし、ケースの開け閉めで温度も変化するし、良い状態に保つのがすごく難しいんです。だから、少量ずつ仕上げて、注文を受けてから奥の箱から取り出すようにしています。製造は私一人でやっているので、仲間からは、なんでそんな手間のかかることやるんだって笑われていますが。

 

猫井先生

なるほど。だから全てのケーキがベスト・コンディションなんですね! ところで、オペラとかフレジエといった伝統菓子は、お作りにならないのですか?

 

山根シェフ

将来的には作っていきたいと思っていますが、とりあえずは、創作菓子を作っていって、私の考えるお菓子というものを知っていただきたいなと思います。伝統菓子を作るときは、基本に忠実に、シンプルなかたちで、本来の味わいを知っていただければと考えています。

今回一番私の心に残ったシェフの言葉。「数々の障壁を乗り越えて、自店のケーキを求めてくれた顧客に最高の感動を届けたい」。考えてみれば、従来のパティスリーは、あまりにも広い客層をターゲットにし過ぎてはいなかったか。ショーケースの煌びやかさを追求するあまり、ひとつひとつのケーキの状態を犠牲にしてこなかったか……。こちらのお店は、今後パティスリーが進むべきひとつの方向性を示しているのではないだろうか。

 

是非、皆さんには、シェフが仕掛けた数々の障壁を乗り越えて、最適なコンディションに調整されたお菓子が紡ぎ出す、味わいのストーリーを体験していただきたいと思う。

 

※価格はすべて税抜

 

教えてくれた人

猫井 登

当マガジン連載「スイーツ探訪」でお馴染みのお菓子の歴史研究家。1960年京都生まれ。 早稲田大学法学部卒業後、大手銀行に勤務。 退職後、服部栄養専門学校調理科で学び、調理免許取得。ル・コルドン・ブルー代官山校にて、菓子ディプロム取得。フランスエコール・リッツ・エスコフィエ等で製菓を学ぶ。著書に「お菓子の由来物語」(幻冬舎ルネッサンス刊)「おいしさの秘密がわかる スイーツ断面図鑑」(朝日新聞出版刊)がある。

 

取材・文・写真:猫井登