〈僕はこんな店で食べてきた〉

三島由紀夫も愛したオニオングラタンスープ

カナユニ」とは不思議な名前だが、「かなりユニークな」という言葉から付けられたのだそうだ。開業は1966年、赤坂見附にあったサントリー本社の裏の雑居ビルの地下一階。ちょっと急で長い階段を下りると、使い込まれた木のカウンターと音楽フロア。深夜までジャズを楽しみながら、西洋料理を味わえるレストランだった。メインのお客は夜にしっかりとした料理を食べたい人々で、芸能人や文化人、マスコミ、銀座がはねたあとのアフターの客といった感じだろう。メニューには「三島由紀夫が愛したオニオングラタンスープ」も載っていた。

 

僕は20代のころに存在を知ったが、若造が行くにはハードルが高く、初めて訪れたのは40になってから。だが、渡されたメニューに拡大鏡がついているのを知って、「ああ、それでもまだ来るには早すぎるんだな」と身分をわきまえぬ行動だったことを悔いたものだ。
そのカナユニが周辺の再開発で閉店したのは一昨年の春のこと。このままなくなってしまうのは惜しいと思っていたら、昨年12月に南青山で再開店。前オーナーの息子さんが調度品もできるだけ運び、雰囲気もそのままにオープンさせた。

出典:hesashiさん

さっそく訪れたが、メニューもそのままでジャズ演奏があるのも同じ。あの螺旋階段がなくなったのは残念だが、深夜まで西洋料理(フランス料理ではなく西洋料理と呼ぶのが正しいと思わせる料理)を食べられる場所ができたのは喜ばしい限りだ。
考えてみると2000年あたりを境にして深夜にしっかりした料理を楽しめる店が次々となくなっていった。新生カナユニの近くには24時間営業の洋食店「SARA」があったが、そこもいつしかなくなった。

表参道にはブラッセリー文化を日本にはじめて紹介した「ブラッセリーD」があったが、深夜営業をやめ、そして閉店した。
深夜まで飲む習慣が消えていったこともあるし、日本経済が悪くなり、接待費が削られるにつれ、銀座や六本木のアフターの旦那衆がいなくなったことも大きいだろう。

若造が近寄れない料理店

そんな店の中で僕の一番思い出に残るのは神宮前にあった「パスタン」という店だった。この連載の2回目に書いた伝説的なスペインバル「ポコ・ア・ポコ」の向かい側、外苑西通りに面したレストランだった。といっても僕がその存在に気づいた1980年代からすでに、一見は入れない雰囲気の店だった。

「ワイン一杯で一万円以上するらしい」「大物芸能人が密会に使っている店なんだって」などとうわさばかりが先行していたが、あるときデザイナーの先輩が常連だったことがわかり、彼に連れて行っていただいた。中にはいると薄暗く、古い調度品が置かれ、パリの古いビストロのような雰囲気。サービスマンはひとり、初老でちょっと恐そうなイメージだったが、知ってしまえばとてもフレンドリーだった。

それ以来何度も訪れているが、ここの料理もカナユニと同じように古きよき西洋料理。ビストロ料理もあったが、僕のお気に入りはコーンドビーフだった。いわゆる「コンビーフ」なのだが、いわゆる「ノザキのコンビーフ」の味とはまるで違う(これはこれで好きなのだが)、肉の旨みが繊維にまとわりついて、絶妙の味だった。当時は家でもコーンドビーフを作れるとは思いもしなかったから、パスタンにいけば食べられると思うと、前の日から楽しみだった。
そのパスタンも十年ほど前にひっそりと閉店した。いまも前を通るとそのままの状態で残っているから、たまに「再開したんじゃないかな」と目を凝らすが、新しい店ができるわけでもなく、更地にもなっていない。

ごちそうコンビーフ

そして、パスタンで知った「コーンドビーフ」はその後、いろんな店で作られはじめた。銀座にあるステーキレストラン「加藤牛肉店」では前菜に出される山形牛の「手ほぐしビーフ(コーンドビーフ)」が人気となり、販売店や通販でも買えるようになった。

「加藤牛肉店」の手ほぐしビーフ 出典:みるみんくさん

代官山の路地裏にあるカフェ「Hearty」のコーンドビーフサンドも量がたっぷりで記憶に残っている店だが、残念ながら昨年閉店したようだ。
文京区千駄木で戦後まもなく牛肉店として開業した「腰塚」は谷根千人気で一躍名前を知られるようになると同時に、自家製コーンドビーフがブレイク。いまでは、経営は違うものの「黒毛和牛 腰塚」というブランドで自由が丘を筆頭に焼肉店「焼肉 腰塚」を展開、そこでも同じコーンドビーフを楽しめる。

「焼肉 腰塚」の極上コンビーフ丼 出典:acharinさん

いっぽうノザキも「熟成コンビーフ」「山形県産牛コンビーフ」など高級ヴァージョンを作り始め、コーンドビーフもさまざまな種類のものが出始めた。

そうした市販品のなかで僕が好きなのは、北海道十勝のコスモスファームがブラウンスイス牛を使って作った「無塩せきコンビーフ」。発色剤を使っていないために見た目は地味だが、しっかりした味でジャガイモと炒めただけで美味しい。
とはいえ、コーンドビーフは低温調理器さえあれば、自宅でも簡単に作れるようになった。あのときパスタンで驚いた経験をいまの若人がすることはないのかもしれない。

 

★今回の話に登場した店