〈僕はこんな店で食べてきた〉
イタ飯が僕たちにもたらしたこと
伝説の店が今、再び
4月にオープンした山田宏巳さんの新店「テストキッチンH」を、一足先にうかがう機会をいただいた。
山田さんは1985年に若くして原宿「バスタ・パスタ(以下バスタ)」の初代料理長に就任。その後、紆余曲折があったが、「リストランテ・ヒロ」「ヒロソフィー」を経て、64歳で新店を立ち上げたわけだ。
テストキッチンHは、山田さん自ら「バスタ・パスタの再現」と呼んでいる通り、中に入ると明らかに既視感。はじめてバスタを訪れた時の衝撃を思い出させた。バスタは白が基調、テストキッチンは黒という違いはあるが、まさにバスタと同じスタイルのキッチンだったのだ。
1985年にできたバスタはあらゆる意味で衝撃だった。店に入ると真ん中に巨大なフルオープンキッチンがあり、それを囲むようにテーブルがある。客は、シェフが作っている自分の料理をすべて見られる仕組みで、「あのシェフが煽っているパスタがうちに来る皿だな」と話しながら、料理の到来を待つ。そのシェフたちも、「ピアット キタミ」北見博幸シェフ、「リストランテ濱崎」濱崎龍一シェフ、「クラッティーニ」倉谷義成シェフ、「カノビアーノ」植竹隆政シェフら錚々たるメンバーの若かりしときだ。
いまでこそ、そんなキッチンスタジオ風のレストランはけっこうあるが、日本でそれを初めて取り入れたのがバスタのオーナーの杉本尉二さんだった。日本で初めてのレゲエライブの店「ホットコロッケ」を作ったプロデューサーで、30代のちょい悪オヤジたちが流行をリードしていた時代だった。
客の目の前に肉や魚を見せ、調理方法も店と一緒に決める。テーブルには白い紙がテーブルクロス代わりに敷かれ、会計をお願いすると紙の上に書いて計算するというサービスもかっこよかった。
イタリア料理の「PL学園」
当時、バスタとともに通ったのが青山「ビザビ」だった。ビザビは山田シェフがバスタの前に料理長をやっていた北イタリア料理の店で、僕が通っていたころの料理長は室井克義さん。のちにホテル西洋「アトーレ」のシェフになるイタリアンの重鎮だ。サルティンボッカやオッソ・ブーコなど、ここではじめて食べた料理はたくさんあるが、なかでもイタリアの白ワイン「ガビ・デ・ガビ」で作るリゾットは絶品だった。オーナー支配人の橋本さんから「このリゾットはガビを頼まないと作れないよ」といわれ、注文するとボトル4分の1程度を厨房に召し上げられ、完成を待つという具合だ。
残念ながらビザビは2010年に閉店したが、山田さん、室井さんのほか、「ダノイ」の小野清彦さんなど有名シェフを輩出し、バスタと並んでイタリア料理界の「PL学園」のようなものだった。(改めて考えると、この例えもいささか古いが)
「イタ飯」全盛期
だが、当時のイタリア料理は、フランス料理に比べればマイナーだった。ライターの畑中三応子さんの著書『ファッションフード、あります。はやりの食べ物クロニクル1970−2010』によれば、1985年の東京で前菜からデザートまで提供するイタリア料理店は15軒前後で、その風向きが変わるのが86〜87年。イタリアで修業してきたシェフが帰国し始めてのことで、「イタ飯」と呼ばれることで一気にブレイクしたという。
そのシンボル的存在が、「ボナセーラ系」の教祖、恵比寿の「イル・ボッカローネ」だった。入店すると店員たちから大声で「ボナセーラ(こんばんは)!」と呼ばれるのが特徴で、オープンキッチンには生ハムや巨大な半月形のパルミジャーノチーズが鎮座。かつてのピザはピッツァ、スパゲッティはパスタと呼ばれるようになったのもその頃のこと。実は30年しか経っていないのだ。
ただ、当時はバブルとはいってもイタ飯は安くない。ビザビはふたりで3万円超、バスタパスタだって2万円はかかったと思う。ボナセーラ系は多少安いといってもふたりでいけば2万円近い。
そんなときに、リーズナブルにイタ飯の雰囲気が味わえるとして流行ったのが「地中海料理」。もともとは1966年からある淡島通りの「ドマーニ」がルーツで、イタリア料理と規定せず、地中海を囲むオリーブオイルを使った料理を供するレストランのこと。
ドマーニで修業して独立したシェフは多く、どの店もメニュー数は多かったが、「セウタ」(魚介類のチリソース煮)や「タラモサラダ」(タラコのポテサラ)がオンリストされているのが特徴だった。なかでも当時流行ったのは代官山「フラッグス」で、ふたりで2、3品とパスタ、ワインはカラフェで取れば1万円程度で楽しめた。
「デートはイタ飯」という時代
だが、当時一番通ったカジュアルイタリアンとは? と聞かれたら、まっさきにあげるのは外苑前「タヴェルナ・アズーラ」だった。この店の名前をはじめて聞いたのは青年漫画誌「ビッグコミックスピリッツ」のホイチョイプロダクションの連載「東京いい店やれる店」(連載タイトルは違ったかもしれない)だった。
味ではなく、「女性とやれる!」ことだけに絞ったレストランのガイドで、この店は「二つ股」(ミシュランと違って、女性の股印で「やれる度合い」を表していた)。それを信じて、ずいぶん女性と出かけた。そちらのほうはガイドの神通力はなかったが、味は抜群だった。
当時のアズーラは千駄ヶ谷駅近くの路地の奥にあり、まさに隠れ家感満載。中に入ると、黒板にイタリア料理がズラっと並び、ライブ感あふれるオープンキッチンで料理が次々と繰り出される。いまでこそ当たり前だが、当時、こんなレストランはアズーラしかなかった。しかもふたりで1万円程度と、若輩でもなんとかデートに使える店だった。
あれから30年。ボナセーラ系の教祖、イル・ボッカローネはいまも健在で、わいわいとした雰囲気の中でイタリアンが味わえる。ドマーニは現在、「1966 DOMANI」と名前を変えて繁盛している。
フラッグスはすでに閉店したが、かつての料理長がいま虎ノ門に「バルタパス」を開いている。
アズーラは当時より数百メートルほど青山三丁目寄り、ビルの地下に移転した。当初よりは広くなったが、すでに移転して20年以上経つからすっかり溶け込んでいる。イワシのパン粉焼きやウニのスパゲッティ、ポルチーニのフェトチーネはいまも現役だ。
90年代以降も、六本木「ラ・ゴーラ」「アモーレ」、西麻布「アクアパッツァ」、広尾「アッピア」など数々の名物イタリアンが現れ、僕もそれらでいろんな記憶を作ってきたが、思い出に残るイタリアン3つといえば、バスタパスタ、ビザビ、アズーラの3店だ。飯倉「キャンティ」は挙げなかったが、ここは僕の一世代前の店だろうと思う。
テストキッチンHはゴールデンウィークも盛況だった。ディナーのみ営業、コース5800円という安価でヒロミさんの料理が目の前で味わえるのは画期的。あのバスタパスタのように時代を作るレストランになるといいなあと思う。
★今回の話に登場する店
・テストキッチンH
・イル・ボッカローネ
・タヴェルナ・アズーラ
・1966 DOMANI
・バルタパス
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