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本田直之の旅する東京―パスポートのいらない、現地メシ

東京は、世界でいちばん小さな世界旅行ができる街だ。円安や物価高で、海外へ気軽に食べに行くのは少し難しくなった。けれど東京には、その国の人たちが通い、現地の香りや空気をそのまま残した店がある。
この連載では、世界66カ国255都市を食べ歩いてきた本田直之が、東京に息づく“現地メシ”を訪ねる。現地の人が通う理由、初めて食べるべき一皿、そして料理の背景を、シェフや店主へのインタビューから探っていく。
15年前の衝撃から、今年はインド4都市を食べ歩いた

15年前、インドを旅した最後に訪れた一軒で、僕のインド料理のイメージは大きく変わった。
デリーの「Indian Accent」。それまで各地で食べてきたカレーやタンドール料理とはまるで違い、盛り付けはフレンチやイタリアンのように洗練され、伝統料理を自由に再構築していた。
「インドに、こんな料理があるのか」
当時、モダンインディアンキュイジーヌを体験できる店は、インドでもまだ多くなかった。
それから15年。今年2月、再びインドを訪れ、ハイデラバード、バンガルール、ムンバイ、デリーの4都市を巡った。ビリヤニだけでも20種類を食べたが、15年前と比べて特に驚いたのは、モダンインディアンの裾野が大きく広がっていたことだ。
ムンバイの「Masque」をはじめ、大都市には質の高いレストランが増え、若いシェフたちが活躍している。伝統をそのまま再現するのではなく、自分たちの世代の感性で解釈し直し、スパイスや料理のルーツを大切にしながら、新しい技術や食材を取り入れる。インド料理が、いま進行形で変化していることを実感した。
そんな今のインドを食べ歩いたあとでも、東京で改めて「ここは別格だ」と感じる店がある。それが銀座の「SPICE LAB TOKYO」だ。

2019年にオープンした「SPICE LAB TOKYO」は、インド料理をコース仕立てのガストロノミーとして表現するレストラン。僕がこれまで食べてきたモダンインディアンの中でも完成度はかなり高く、インド本国でもここまでの料理にはなかなか出会わないと思っている。
最初に驚いたのは、日本の食材の使い方だった。インド料理を日本向けに薄めるのではない。旬の魚介や野菜、味噌や酒粕といった日本の食材や技法を使いながら、皿の根底にはきちんとインドがある。しかも、日本の食材を使うことが単なるアレンジで終わっていない。食材の質や季節感を生かすことで、インド本国でもあまり体験したことのないレベルまで料理を押し上げている。
僕がこの店を面白いと思う一番の理由は、そこにある。
日本の魚介や野菜、季節ごとの食材の質に、インドのスパイス使いと世界で磨いた調理技術が重なる。それによって、本場を再現するだけでは生まれなかった料理へと昇華させている。
新しくすることと、ルーツを守ることは両立するのか。その答えを、この店の料理と総料理長テジャス・ソヴァニの言葉から探ってみた。
The Oberoi、AMAN、nomaを経て銀座へ

「SPICE LAB TOKYO」の総料理長を務めるのは、テジャス・ソヴァニシェフ。インド西海岸の都市、ムンバイ出身。インドの名門ホテル「The Oberoi」で副総料理長兼レストラン料理長を務め、その後「AMAN」でも副総料理長を経験した。さらにコペンハーゲンの世界的レストラン「noma」で3カ月間研修し、ヨーロッパや中東など、さまざまな土地の食文化にも触れてきた。世界を見てきたからこそ、テジャスはインド料理を自由に捉えられるのかもしれない。
本田:料理の世界に入ったきっかけは?
テジャス:この仕事を始めて20年になります。子どもの頃から料理に魅了されていましたし、父や親戚の男性にも料理が得意な人が多かったんです。高校生のとき、サマーキャンプで五つ星ホテルの厨房を体験する機会がありました。そこで完全に料理に心を奪われました。
料理は、簡単そうに見えることでも、きちんと作るのは難しい。だから、うまくできたときの喜びが大きい。そこからもっと深く知りたくなり、プロの道に進みました。「The Oberoi」「AMAN」で経験を積み、ヨーロッパや中東も巡りました。日本に来るまで、本当に刺激的な道のりだったと思います。
インド本国にはない、日本だから生まれたモダンインディアン

本田:実際にインドを旅すると、本当に地域ごとに料理が違うよね。以前の日本では、その違いはほとんど知られていなかった。今は南インド料理やハイデラバードのビリヤニも知られるようになってきた。SPICE LABでは、インドの地域性をどう表現している?
テジャス:料理を考えるときは、インド全土を見るようにしています。ただ、インドはとても広いので、すべてを同じように扱うわけではありません。日本へ来る前に働いていた「The Oberoi Gurgaon」のレストラン「Amaranta」では、ベンガル、ゴア、マンガロールなど、東西の沿岸地域の料理を扱っていました。その経験は今の料理にも大きく影響しています。
個人的には南インド料理が好きです。北インド料理に比べて軽やかで、使う食材も多彩です。SPICE LABでも南インドだけに限定せず、東西南北さまざまな地域の要素を取り入れ、日本の四季に合わせてコースを組み立てています。
本田:インド各地の料理と、日本の四季を組み合わせている。
テジャス:そうです。それが私たちのテーマです。日本には四季があり、季節ごとに素晴らしい食材があります。それを使わないのはもったいない。伝統的なインド料理をベースに、日本だからこそ使える食材や季節感を取り入れています。目指しているのは、「インド料理とはこういうもの」というお客様のイメージを変えることです。

僕自身、その考えにはすごく共感する。本場の料理を東京でそのまま再現する店も面白い。でもSPICE LABがやっているのは、その一歩先だ。
インドの料理人が日本へ来て、日本でしか手に入らない食材や、日本で学んだ技術と出会う。その結果、本国にもなかった新しい料理が生まれる。 東京だから食べられるインド料理が、ここにはある。
酒粕、山菜、手羽先餃子。日本での発見がインド料理になる
テジャスが初めて日本を訪れたのは2018年だった。まだインドの「The Oberoi」で働いていたが、すでに日本へ来ることは決まっていた。京都の錦市場へ行き、知らない食材を買い込み、インドへ持ち帰って研究したという。

本田:最初は、日本の食材についてほとんど知らなかったと思う。どうやって料理に取り入れていったの?
テジャス:「AMAN」で働いていたとき、懐石料理の日本人シェフが酒粕を使った魚料理を作ってくれました。それがとても面白くて、技術を教えてもらい、自分でも試しました。日本に住んでからも、食材だけでなく調理技術を学び、それをインド料理にどう生かせるかを考えてきました。日常の中にもヒントがあります。例えば「SPICE LAB」には、チキンティッカと餃子を組み合わせた料理があります。居酒屋で手羽先餃子を食べたとき、「これは面白い」と思ったのがきっかけでした。
本田:日本の食材で、特にインド料理との相性が面白かったものは?
テジャス:大切なのは、「日本の食材だから使う」ということではありません。その食材の個性をどう生かすかです。春のコースでは山菜を使いました。妻が家で作るゴーヤ料理がヒントです。ゴーヤと山菜には「苦み」という共通点がある。そこで置き換えてみたら、日本の春を感じながら、きちんとインド料理として成立しました。食材には一つひとつ個性があります。それを理解し、どこに生かすかは料理人の知識と経験だと思っています。

テジャスの面白いところは、日本の食材を珍しいから使うのではなく、インド料理の中にある味覚や構造と結びつけていることだ。
ゴーヤと山菜を「苦み」でつなぐ。酒粕の技法を魚料理に生かす。手羽先餃子を見て、チキンティッカのアイデアへ変える。コピーではなく、翻訳に近い。だから日本の食材を使っても、料理がインドから離れていかない。
「コカムがなければ、その料理は作らない」――変えても、ルーツは変えない
自由に見えるテジャスの料理には、越えてはいけない線がある。それが、料理のルーツだ。

本田:海外では「モダンジャパニーズ」と言いながら、日本人が食べると「これは日本料理なのかな」と感じるものもある。でもテジャスの料理は、日本の食材を使っていても、きちんとインド料理だと感じる。どこを守っているの?
テジャス:一番大切なのは、料理のルーツに忠実であることです。例えば、南インドを代表する「ラッサム」です。(ラッサムは、タマリンドなどの酸味に、胡椒やクミンなどのスパイスを効かせた、さらりとしたスープだ)
テジャス:SPICE LABではウナギやハマグリなど日本の食材を使うことがあります。でも、ラッサム本来の香りや味は変えません。南インドの人が一口飲んだ瞬間、「故郷の味だ」と感じられる。それが大切です。日本の食材を取り入れても、料理の本質は変えない。インドの人が食べて、子どもの頃の家庭の味を思い出せることを意識しています。
本田:逆に、日本で代用できないものは?
テジャス:例えば「コカム」です。南インドの魚カレーやラッサムに使う、酸味のある果実です。タマリンドや生のマンゴーも酸味がありますが、コカムとはまったく違います。もしコカムが手に入らなければ、その料理は作りません。本来の味ではなくなってしまうからです。スパイスも、ほとんどインドから取り寄せています。
本田:一方で、日本の山椒や木の芽、西京味噌も使う。
テジャス:使います。ただし、料理の軸はあくまでインド料理です。例えばラム料理の付け合わせのベビーコーンには、西京味噌を使います。日本の食材や調味料を取り入れても、その皿がどこから来た料理なのかは失わない。そのバランスを大切にしています。

この話を聞いて、SPICE LABの料理がなぜ自由なのにインド料理として成立しているのか、よくわかった。変えることより、何を変えないかを知っている。だから大胆に変えられるのだ。
インド4都市で20種類食べても、ここのビリヤニはトップクラス

僕がSPICE LABで特に好きなのが、ビリヤニだ。
インドを旅する前には、テジャスからスパイスの組み立てやハイデラバード式ビリヤニの調理について教わった。そのうえで現地でもかなりの数を食べ比べてきた。そんな経験を踏まえても、SPICE LABのビリヤニは、僕がこれまで食べた中で間違いなくトップクラスだ。
本田:SPICE LABのビリヤニは軽やかで、香りの重なりがすごくきれいだと思う。何を大切にしているの?
テジャス:ビリヤニは「辛い料理」だと思われることがあります。でも、私は辛さを強くしすぎません。辛さが前に出ると、肉や米のおいしさだけでなく、何種類ものスパイスが作る繊細な香りまで隠れてしまいます。目指しているのは刺激ではなく、味わいの奥深さです。軽やかで、バランスがよく、最後まで心地よく食べられるビリヤニです。
本田:それは日本料理にも通じるところがある気がする。素材を強い味で覆うのではなく、それぞれの味を見せる方向へ洗練されていく。テジャスのビリヤニにも、同じ感覚を感じる。

僕が「インド本国でもなかなか出会わないレベル」と感じるのも、単に高級な食材を使っているからではない。スパイスが料理を支配しない。旬の魚介や野菜の味を残しながら、その奥にインドの香りがある。そのバランスは、日本の食材を知ったテジャスだからこそ作れるものだと思う。
手羽先餃子×バターチキン。自由なのにインド料理の理由
もう一つ、SPICE LABらしさがよく表れているのが、バターチキンを再構築した一皿だ。
本田:日本のゲストに、まず食べてほしい料理は?
テジャス:バターチキンから着想を得た料理です。日本ではバターチキンがとても人気ですし、インドでも国民的な料理です。それを「SPICE LAB」らしく作り直しました。
手羽先をタンドリーソースでマリネし、中にはニラやキャベツなど、餃子をイメージした具材を詰めてグリルします。それをバターチキンのソースと合わせます。さらに、ナンを使ったパンザネッラ風のサラダを添えています。パンザネッラはイタリアのパンを使ったサラダですが、ナンで作るので、僕たちは「ナンザネッラ」と呼んでいます。バターチキン、ナン、サラダ。それぞれを一度分解して、別の形で組み直した料理です。

説明だけ聞けば、インド、餃子、イタリア料理が一皿に集まった料理に見える。ところが食べれば、きちんとインド料理だ。 この一皿は「SPICE LAB」が何をしている店なのかを、とても分かりやすく表している。
新しいものを足しているのではない。インド料理の構造を理解したうえで、一度分解し、日本で得た経験を使って組み直している。だから奇をてらったフュージョンにはならない。
銀座で味わう、インド料理の「今」と「これから」

本田:この店で、日本のゲストにどんな体験をしてほしい?
テジャス:料理を通して、インドを旅したような気持ちになってもらえたらうれしいですね。一皿一皿に、それぞれインスピレーションやストーリーがあります。ただおいしいだけではなく、「なぜこの料理が生まれたのか」「どんな土地の料理なのか」まで感じてもらいたい。実際にインドを訪れたことがなくても、料理からその土地の文化や風景、人々の暮らしを想像することはできます。日本とインドという異なる文化をつなぐことも、この店が目指していることの一つです。
15年前、僕はデリーで「こんなインド料理があるのか」と驚いた。そして今年、進化したインドのモダンインディアンを4都市で食べ歩いた。それでも銀座の「SPICE LAB TOKYO」には、現地とはまた違う驚きがある。インド料理を日本風に変えているのではない。インド各地の伝統を深く理解したシェフが、日本の食材や技術と出会ったことで、本国にもなかった次の表現をつくっている。
東京では、世界の料理を食べられるだけではない。世界の料理が、この街で次の形へ進んでいく。それもまた、東京で世界を旅する面白さだ。


