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本田直之の旅する東京―パスポートのいらない、現地メシ

東京は、世界でいちばん小さな世界旅行ができる街だ。円安や物価高で、海外へ気軽に食べに行くのは少し難しくなった。けれど東京には、その国の人たちが通い、現地の香りや空気をそのまま残した店がある。
この連載では、世界66カ国255都市を食べ歩いてきた本田直之が、東京に息づく“現地メシ”を訪ねる。現地の人が通う理由、初めて食べるべき一皿、そして料理の背景を、シェフや店主へのインタビューから探っていく。
東京の“現地メシ”は、外国出身の料理人が母国の味を持ち込んだ店だけではない。日本人が異国の料理に惚れ込み、その骨格を学び、日本で磨き上げた味もある。今回は、その一軒だ。
5歳の頃から「好きな食べ物はビリヤニ」

本田:奈良さんは、そもそもなぜビリヤニを作りはじめたの?
奈良:叔母のパートナーがパキスタン人で、幼稚園の頃からビリヤニが身近にあったんです。叔母が作ったビリヤニをお土産に持ってきてくれるような環境で、5歳にして好きな食べ物はビリヤニでした。
本田:30年ほど前なら、日本でビリヤニを知っている人はほとんどいなかったでしょう?
奈良:ほとんどいなかったと思います。その後、叔母がドバイへ移住したこともあって、しばらくビリヤニから離れていました。就職後、仕事仲間とのシェアハウスをきっかけに、日常的に料理をするようになりました。実家でもそこそこ料理はしていましたが、家を出て自分で食事を作る機会が増えたんです。そのとき「昔から好きだったビリヤニを、自分で作れたら最高だ」と思い、叔母にレシピを送ってもらいました。
本田:そこでビリヤニを作りはじめたんだ。
奈良:シェアハウスにはいろいろな友人が遊びに来ていたので、たくさん試作してもすぐになくなるんです。毎日のように作っても食べてくれる人がいて、その場で感想ももらえる。あの環境でかなり練習できました。
渡航前に東京で学び、インド4都市で20種類を食べ比べ
僕自身、日本各地でビリヤニを食べ歩き、料理人に教わりながら自分でも作っている。それでも、まだ分からないことが多い。
インドへ向かう前には、銀座のモダンインディアンレストラン「SPICE LAB TOKYO」の総料理長、テジャス・ソヴァニから、スパイスの組み立てとハイデラバード式ビリヤニの背景、調理法について教わった。
そのうえで、料理人の仲間たちとハイデラバード、ベンガルール、ムンバイ、デリーを巡り、各地のビリヤニを食べ比べた。米の香り、スパイスの立ち方、肉の使い方、油の量、炊き方。事前に学んでから食べると、違いがよく分かった。
ムンバイでは「Asia’s 50 Best Restaurants 2026」で15位、5年連続でインド1位に選ばれたモダンインディアンレストラン「Masque」のヘッドシェフ、ヴァルン・トートラニ氏に案内してもらった。同じ街でも、店によって米の炊き上がりやスパイスの重ね方はまるで違う。ビリヤニに一つの正解はないと、改めて実感した。 それでも帰国後、また食べたくなったのが「ビリヤニ炊爨室(すいさんしつ)」だった。
本場の骨格を守り、油と辛さを抑えたハイデラバード式

店は、日本橋本町のオフィス街にある。大通りから一本入った路地に立つ小さなビルの2階。黄色いのれんをくぐって階段を上ると、バスマティライスとスパイスの香りが漂ってくる。

メニューは「ハイデラバードチキンビリヤニ」と「ハイデラバードマトンビリヤニ」の2種類に絞られている。
ハイデラバードは、インドでも「ビリヤニの街」として知られる。その特徴の一つが、米と肉を層に重ね、鍋を密閉して蒸し上げる「ダム」という調理法だ。
口に運ぶと、バスマティライスが一粒ずつさらりとほどける。現地で食べたビリヤニに比べると、油は控えめで、辛さも穏やかだ。それでも香りや旨みは弱くない。余分な重さを抑えることで、米、スパイス、肉の違いがよく分かる。本場の味を薄めたのではない。ハイデラバード式の骨格を守りながら、油と辛さの強度を日本で整えている。
付け合わせには、ライタとミルチ・カ・サランがある。ミルチ・カ・サランは、青唐辛子をピーナッツやゴマ、ココナッツ、タマリンドのグレービーで煮込んだハイデラバード料理だ。
僕は、まずビリヤニだけで食べ、途中からライタを合わせるのが好きだ。ヨーグルトの酸味と冷たさが加わると、後半も重くならない。ミルチ・カ・サランは、味に変化をつけたいときに少し添える。
「味のムラ」が次の一口を呼ぶ

本田:同じハイデラバード式でも、店によってビリヤニはまったく違う。「ビリヤニ炊爨室」が特に大切にしていることは?
奈良:肉と米を層にして炊くので、一皿の中に味のムラが生まれるんです。白い部分は米の香りが強く、黄色い部分はスパイスが強い。肉の周りの米には、肉の香りや旨みが染み込んでいる。全部を均一にするのではなく、その違いを楽しんでもらいたいと思っています。
それと、ビリヤニだけできちんと完結させたい。トッピングも一緒に楽しんでほしいのですが、まずは何も加えずに食べても満足できる味にすることを大切にしています。
僕自身、辛いものがあまり得意ではないので、辛さも控えめです。辛くすればわかりやすいパンチは出ますが、食べられる人が限られてしまう。イベントでは子どもから年配の方まで食べるので、唐辛子の辛さを立たせるのではなく、旨みに変えるようにしています。
本田:マトンを食べたけれど、おいしかった。どんな肉を使っているの?
奈良:基本的にはオーストラリア産のマトンです。大切なのは、骨付きの肩肉を使うこと。骨がないと、煮込んだときに十分な旨みが出ません。
本田:人気があるのはマトンとチキン、どちら?
奈良:初めての方はチキンを選ぶことが多いのですが、リピーターにはマトンが人気です。マトンはあらかじめ煮込んでから米と合わせますが、チキンはスパイスやヨーグルトに漬け込んだ生の鶏肉を米と一緒に炊きます。鍋に蓋をしたあと、周囲を生地で密閉すると内部に蒸気がこもり、鶏肉をしっとり軟らかく仕上げることができます。
6席の店から7,400食へ

奈良:シェアハウスに遊びに来ていた人の中にバーを経営している方がいて「これ、うちの店でも出してみない?」と声を掛けてもらったのが始まりです。その後、知り合いの店で作ったり、ライブやクラブイベントに呼ばれたりするようになりました。
本田:その頃は、まだ会社勤めをしていた?
奈良:会社員として都市開発やイベント企画に携わりながら、週末にビリヤニを作っていました。コロナ禍で仕事を取り巻く環境が変わり、店を始めようと物件を探していたところ、ここを紹介してもらったんです。
この店はワインバーと場所をシェアしているので、小さく始めることができました。ただ、ビリヤニが売れるにつれて、6席では限界が出てきた。それで、大規模なイベントにも力を入れるようになったんです。

奈良さんは、2017年に「流しのビリヤニ」として活動を始め、2022年11月に日本橋で「流しのビリヤニSTAND」を開店。2024年6月に現在の「ビリヤニ炊爨室」へリニューアルし、2025年1月には静岡市の複合施設「cosa」に2号店を出した。
2025年のJapan Mobility Showでは、80人前ほど炊ける大鍋を4台並べ、約7,400食を提供した。小さな店で一皿ずつ出すことと、大規模イベントで幅広い世代に食べてもらうこと。その両方の経験が、ビリヤニらしさを残しながら、重すぎず、辛すぎない現在の味につながっている。
「カレーを通っていない」から、ビリヤニだけを突き詰める

本田:バスマティライスは何を使っているの?
奈良:インド産の「ラルキラ」です。日本で手に入るバスマティライスの中では、一番おいしいと思っています。ビリヤニは米によって味が大きく変わるので、良質な米を安定して仕入れることが重要です。
叔母の知り合いがパキスタンでバスマティライスの農家を営んでいるので、そこの米を使えないか検討しています。事業を広げるうえでも、独自の仕入れルートを持つことは大切だと考えています。
本田:もともとは「流しのビリヤニ」として、店を構えずに活動していたんだよね。
本田:僕は、ビリヤニ専門店なら、あれこれ広げず、その一皿を突き詰めている店に惹かれる。単品に特化するからこそ、完成度を上げられると思う。
奈良:だから、うちは基本的にカレーはやりません。僕自身、カレーから入ったのではなく、最初からビリヤニだったということもあります。良い意味でも悪い意味でも、カレーを通っていない。僕は、ビリヤニとカレーはまったく違う料理だと思っています。
本田:インドには、ビリヤニだけを出す300席規模の専門店もある。単品に特化しているからこそ、味を突き詰められるんだと思う。
奈良:ビリヤニは一皿で完結しますし、大鍋で一度にたくさん作ることができます。そうした特徴は、専門店にもイベント出店にも向いていると思います。
ビリヤニに合う酒を考える

本田:ビリヤニに合わせるなら、どんなお酒がいい?
奈良:焼酎とビリヤニは合いますね。静岡店では、奥会津の「ねっか」と「オリエンタルリカー」が共同開発した、米を原料にスパイスを重ねた酒も出しています。
名古屋の「ワイマーケットブルーイング」とは、バスマティライスを使ったビールも造りました。米の香りは思ったほど強く出ませんでしたが、すっきりした飲み口になったので、爽やかなスパイスを加えています。ビリヤニと一緒に楽しめるビールです。
本田:ビリヤニそのものだけでなく、何を合わせれば、よりおいしく楽しめるかまで考えているんだね。
奈良:今もビリヤニの仕事と並行して、商業施設のイベント企画や不動産開発に関わっています。料理以外の仕事を続けていることが、別の視点からのアプローチにつながっているのかもしれません。料理一本でやっていくことへの憧れもありますけど。
本田:ビリヤニやタコス、ピザのような単品料理は、一つのテーマを深く掘ることで、レストランとは違うクリエイティビティが生まれる。料理だけでなく、店のつくり方や売り方、酒との組み合わせまで広げられる。そこが面白いよね。
予約制の夜営業へ。4〜5人で囲む小鍋ビリヤニ

本田:これからどのように展開していきたい? 以前は、より大きな店への移転も考えていたよね。
奈良:昼と夜の両方を営業し、ドリンクも充実させ、レストランとして展開するプランがありました。ただ、現在はいったん保留にしています。
静岡の「cosa」では、ビールとビリヤニを楽しめるビアバー「Somewhere」も展開します。日本橋店では、予約制の夜営業を準備しています。ランチでは使いにくい食材を使い、一段踏み込んだビリヤニを作りたいと思っています。
例えば、鶏の半身を使い、さまざまな部位が入ったビリヤニを鍋ごと提供する。インドで食べられているバッファローや、上質なギー、より良いスパイスを使うことも考えています。4、5人前を炊ける小鍋があるので、鍋ごと予約してもらい、グループで囲んで食べてもらいたいですね。
本田:それはぜひやってほしい。
初めてならチキン、二度目ならマトン

初訪問ならチキンをすすめたい。二度目はマトンだ。最初から全体を混ぜず、白い米、黄色い米、肉の近くの米を順に食べると、この店が大切にしている味の違いがよく分かる。
途中からライタを合わせ、さらに変化が欲しければミルチ・カ・サランを少し加える。そうすると、一皿の変化を最後まで楽しめる。
次は、インドを一緒に旅した仲間たちと、予約制の夜に小鍋を囲んでみたいと思っている。


