〈僕はこんな店で食べてきた〉

祇園「千花」との出会いと日本料理

 

祇園の割烹「千花」が失火で全焼したというニュースには驚いた。僕にとって初めて訪れた本格的な京料理店だっただけに、その思い出もひとしおだったからだ。

千花の入り口 出典:お店から

記事では千花のことをミシュラン三つ星店として紹介していたが、80年代から千花は、保守的な京都にあって革新的な料理を作り続ける新進気鋭の店として噂は東京にまで届いていた。というより、京都の旦那衆の間では「千花さんですか。東京からのお客様が多い店ですな。うちらはよう行きません」と、距離を置いてみられていたという方が正しいかもしれない。

 

その店を初めて知ったのは、青山にあったスペインバル「ポコ・ア・ポコ」で、銀座のフランス料理「ドデュ・ダーンド」のオーナー、Hさんとの会話だった。(参考記事

 

Hさんは若いころから年に何度も京都に出かけていたが、彼から名前が出る店は「南一」や「川上」、そして千花だった。千花は先代がはじめた料理店で、当時のスペシャリテは赤貝のキウィソース。果物を料理に使うこと自体が珍しい時代だったから、この料理への賛否は数多かったという。
僕は「赤貝の華やかな色とキウィの緑が一緒になったら、さぞやきれいな彩りだろうな」と思って話を聞いていたら、
「そんなに興味があるんなら早く行った方がいい。そろそろ主人は引退されると思うから、彼の料理を食べておくことは将来の君にとって意味があると思うよ。僕もひさしぶりだから、今度行かないか」
と熱弁をふるった彼と一緒に出かけることになったのだ。

千花 出典:Mハルさん

何事にも合理的なHさんだけに宿は簡素なビジネスホテルだったが、その分、食べることに費やした。もちろん千花では、赤貝とキウィを使った料理が出され、その味わいの鮮烈さは覚えている。千花の後は、祇園の表通りにあるバー「元禄」に行き、カクテルを飲んだのもいい思い出だ。

Hさんの言う通り、千花の主人はしばらくして引退。ふたりの息子のうち、長男が千花を継ぎ、次男は近くに「千ひろ」という名前の割烹を出した。火事の続報は当記事執筆段階では入っていないが、先代が集めた器や茶道具がどうなったかが心配だ。

 

こう考えると、僕が日本料理に興味を持ち始めたのは80年代終わりから90年代にかけてのことだったと思う。この会話をしていた頃、一番訪れていたのは青山「おかだ」という店だった。
青山三丁目の近くの路地を入ったところにある隠れ家風の一軒家で、以前は焼鳥屋だったところを息子の代になって料理屋に変えたと聞いていたが、僕は変わってからしか知らない。

 

店は何度か改装したが、僕が一番通った頃は広いカウンターだけの一階とテーブルの二階に分かれていた。頼めばコース仕立てにもしてくれたんだろうが、僕は好きなものを頼むことが多かった。

 

主人の「としちゃん」は独学だったがセンスがよく、料理は注文を受けてからすべて目の前で作った。彼の目の前には炭火台があり、イチボの塩焼きを頼むと串を打ち、丁寧に焼き始める。〆のスペシャリテは野菜雑炊で、大きな鍋に仕込まれた出汁を汲み上げ、コトコトと煮込んで出してくれた。
「うちのマグロは、そんじょそこらの寿司屋よりいいからね。牛肉だって、どこにも負けないよ」
と威勢のいい声で話してくれた。

当時だって「割烹」「日本料理」と呼ばれているところなら当たり前の仕事だったと思うが、おかだは居酒屋というには高級で、かといって割烹ほどハードルは高くなかった。が、居酒屋しか知らなかった僕には新鮮で、数年間は毎週のように通い詰めた。

 

当時僕は雑誌の編集をしていたから、対談や聞き書きで座敷を借りることも多かった。店の選択はたいてい、一番下っ端の僕の仕事。役得とばかり、自腹では行けないところを訪れることにした。
たとえば築地「藍亭」、銀座「金兵衛」、「本店浜作」、原宿「重よし」など。どれも当時のガイドブックを参考にして選んだのだが、根が天邪鬼のせいか、だんだんガイドブックに載っていない店に行きたくなる。そんなときに雑誌の特集で出会ったのが、赤坂にある割烹「津やま」だった。当時TBSのプロデューサーだった久世光彦さんの推薦で、彼の文章に惹かれた。

一見が行ける店ではなかったと思うが、そんなことすら知らないから無謀に電話をして予約。卯の花やあん肝、冷やしトマト煮などちょっとした料理から、沢煮椀、若狭カレイの煮浸し、鯛茶漬けなど割烹らしい料理まで、どれも当たり前のように美味しく、それ以来、座敷を使う必要があれば津やまにすることが多くなった。

津やまの沢煮椀 出典:bottanさん

一階のカウンターにはテレビでよく見る政財界の大物が座って初代の主人と談笑しながら好きなものを頼んでいた。こっちは座敷しか使わないからまっすぐ二階にあがるが、担当してくれたのは主人の娘さん。いまの女将だった。僕はもちろん最年少に近い客だったと思うが、彼女も同年代。数年たって仲良くなってからのことだが、「座敷の一番隅で所在なさげに座っている柏原さんのこと、よく覚えていますよ」と言われたことがある。

 

その当時から東京の日本料理といえば新橋「京味」が有名だったが、僕にとっては津やまこそが東京で一番の店だった。店の前で大将が炭火をおこし、秋刀魚を焼いている姿が目に浮かぶ。
少しずつ日本料理の経験が増えると自分から行きたくなる。が、夜に訪れるのはきびしいから、ランチタイムがある店を狙った。

 

そこで気に入ったのが赤坂にあった日本料理店「と村」だった。雑居ビルの二階にある小さな店。店を訪れると、ローリングストーンズのミックジャガーに似た大将が迎えてくれる。威圧感のある風貌だが、話せば人懐こく、客が少ないときはいろいろ質問攻めにした。
だが、なによりと村がよかったのは単純に懐事情のせいだった。高級な日本料理店は、ランチとはいえ懐石コースだけのところが多かった中、当時のと村のランチタイムはうどんを出していたのだ。

 

具体的な値段は記憶にないがせいぜい1,000円程度だったと思う。きつねやおぼろうどんなど数種類。京風の薄い色のスープだったが、出汁の香りが漂って東京の濃い色のものとは大違い。味も値段も優しくて、料理のことも教えてもらえるとあって、僕にとっては大満足の店だったのだ。彼に紹介してもらい、京丹後まで蟹を食べに出かけたこともある。
いまのと村は虎ノ門に移転し、ミシュラン二つ星の堂々たる日本料理店になった。夏は巨大なマダカアワビの中心だけを使った水貝、冬は専用の蒸し窯で仕立てた越前蟹、アカザエビ。さらには富田林の海老芋、茄子の揚げ浸しに至るまで、どれをとっても満足度の高い料理が味わえる。

と村のアカザ海老 出典:bottanさん

青山おかだは、としちゃんが夭逝された後、奥様が店を引き受けた。落ち着いた雰囲気は変わらなかったが、残念ながら閉店した。

 

津やまは当時の大将が引退し、娘さんが店で働いていた料理人の鈴木弘政さんと結婚。一緒に切り盛りしている。
「うちは日本料理店というより高級居酒屋だからね。美味しいものはたくさんあるから、好きなものを頼んでちょうだい」
という気っ風の良さを愛する顧客が、いまもカウンターに並ぶ。

 

僕にとっては、おかだは日本料理の楽しさを教えてくれた店だし、津やまやと村はその凄さを見せつけられた店だった。

 

その過程の中でいろんな店と出会ったが、千花の記憶は特に印象が強い。その店が、こんなことになったのは、本当に残念でたまらない。

 

★今回の話に登場する店

・千花 現在休業中

 

・津やま

・と村