タベアルキスト・マッキー牧元さんの連載。前回は、意外と侮りがちだが侮れない「実は怖い焼肉屋」について語っていただきました。今回のテーマは、年間600回外食をしているマッキーさんをも怖がらせる「コスパ」についてです。

 外食力の鍛え方〜客上手になろう〜

「ロオジエ」出典:お店から

 

僕は、原稿や投稿で「コスパ」という言葉を使わない。

 

なぜなら怖いからである。

 

いや正確にいえば、コスパという言葉を使う自信がないからである。

 

年間600回外食をし、去年はその内167軒が、初めて訪れる店だった。これより多く外食をしている方も知っているが、一般的には相当な多さだろう。

 

ただ、これだけ経験を積んできても、「コスパ」を使う自信がない。

 

資本主義の世の中に生きている我々は、手に入るものは安い方がいい。外食でいえば、安くてうまいものと高くてうまいものを比べれば、圧倒的に前者の支持者が多い。

 

それゆえに「この店はコスパがいい」あるいは「これくらい高ければ、おいしくて当たり前である」というような意見をよく聞く。その意見自体は正しい。

 

だが、その根拠となると、基準はどこにあるのだろうかという疑問が湧いてしまう。

「コスパ」ということで根拠にするには、2つの課題がある

「ロオジエ」出典:お店から

 

その前にまず前提として、「費用対効果」という意味では、コスパは「良い悪い」ではなく、「高い低い」で表現するのが正しい。

 

使った時間や投資した金額に対して、満足度が高いか低いかが、「コスパ」の指標である。

 

本来「コスパ」は、製造業や通信などで使われる言葉で、生活用品では使わない類の言葉でもある。英語では、「cost-benefit」と言われることの方が多いと聞く。

 

もし生活用品を似たような表現で説明するなら、「割安」とか「お値打ち」や「お得」「リーズナブル」のような言葉で、品質や分量の割合からみると安価なことを指す。

 

割安やリーズナブルは、コスパが高くなる場合があるが、必須の条件ではない。

 

もちろん今、「コスパ」という言葉は、そんな本来の正しい言葉を超えて、「割安感」を示す新しい言葉となって定着したのだろう。

では、ここで一つ目の課題

料理にとっての割安感とはなんだろう? 味・食材・食材の質・量。

 

まずこれらが第一要件で、次に、立地、雰囲気、サービス、清潔感など、料理以外の要件が考えられだろう。

 

これらの中で一番割安感が分かりやすく、コスパの指標として多く使われているのは、食材・食材の質ではないだろうか

 

コースにオマール海老やキャビアが入っているのに、この値段でコスパがすごくいい、といった使い方である。

 

だが僕が冒頭に挙げた“コスパを使う自信がない”のは、自分自身がどこまで食材・食材の質を見極められているかわからないからである。オマールやキャビアに限らず、全ての食材にはピンからキリまである。

 

それらを正確に判断できるのは、その食材を取り扱っている業者や、熟練した料理人しかいないはずで、出来上がった料理を食べている我々素人では、正確な値ぶみなどできないからである。

 

フォアグラ、トリュフ、フカヒレ、ふぐ、松茸、キャビア、オマールや伊勢海老など、高級食材が入っているからこの値段はコスパがいい(悪い)とは、無責任にはいえない。

 

だから僕は「コスパ」を使えない。

第二の課題として、味という問題

出典:あきとん(・・)さん

 

おいしいかそうでないかは、個人差がある。それは経験値に大きく左右されるのである。

 

例えば、回転寿司にしか行ったことがない人が、街場の寿司屋のカウンターに初めて座って食べ、回転寿司との違いに感動したとしよう。

 

彼はひとつ経験値が増えたが、その払った値段が妥当かはまだわからない。

 

もっと感動を味わおうと、数々の寿司屋に行き、星付きの店にも行き、さらなる感動を得るとしよう。

 

そして最初の感動した街場の寿司屋に、久々に戻って食べてみると、以前ほどの感動を感じられなくなってしまった自分に気づく。

 

それは、単に経験値が増えたことによって、おいしいかそうでないかの判断基準が変わったのである。

 

このように人によって経験値は違い、判断基準が違う中で、満足度における「コスパ」は違う。

 

ただし同じ値段帯の回転寿司の中で、このチェーン店はコスパがいい(正確には割安感がある)とは言えるだろう。

 

ただしそれも様々な回転寿司の店に行っているという経験値が必要なのである。

 

僕はコスパ(正確には割安感)は、高価か廉価かには関係ないと思っている。

 

例えば、銀座に「ロオジエ」という高級フランス料理店がある。食べログの価格帯では、ディナーが3万円からという、堂々たるグランメゾンである。

 

ただし銀座の真ん中で、広々とした面積があり、駐車係やレセプションも含めたスタッフの人数は、お客さんの数より多い。

 

料理も都内随一であり、カトラリーや食器も一級、サービスもスマートで一流である。利益は出ているのだろうかと心配になるほど、すべてが完璧で充実している。3〜5万円で食べることができたら、都内でも屈指のお値打ちのフレンチなのである。

音楽や絵画でこの言葉は使われない

最後に僕が、「コスパ」という言葉が怖いだけでなく、どことなく「嫌悪感」を抱いてしまうのは、理由がある。

 

同じ文化の中で、音楽や絵画でこの言葉は使われない。

 

誰かのコンサートや美術展に行って「あのコンサートは(あの美術展は)、コスパが悪い」という発言や投稿は極めて少ない。

 

映画や本でもあまり見かけない。

 

お金を投資してその見返りを求める行為としては同じなのに、なぜ食文化だけこの言葉が横行しているのか?

 

身近で、毎日触れているということもあろうが、食文化への敬意を感じられないので嫌悪感を抱いてしまう。

 

高かろうが安かろうが、その本質を見極めて敬意を注ぐという心が希薄な感じがしてしまうのである。

 

さらに言えば、「コスパ」という言葉にとらわれ過ぎると、本質を見失ってしまう可能性が高まる。

 

それこそ「コスパ」が悪い行為なのではないだろうか。