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【僕はこんな店で食べてきた】
出版界きってのグルメでもあり、「日本ガストロノミー協会」「軽井沢男子美食倶楽部」の会長でもある柏原光太郎さん。編集者としての仕事をきっかけに、どんどん食の世界に傾倒していったという柏原さんの“食歴”はそのまま日本の外食カルチャーの変遷に当てはまる。本連載ではリアルタイムで美食体験を重ねてきた人だからこそ知る、“深遠なる食の世界”を紐解いてもらう。
このストーリーを読めば、次の予約がさらに楽しみになることは間違いない。
第1回 「かっこいい店」を仕掛け続けた、福島直樹さんのこと
2000年、白金に現れた看板のない店
福島直樹さんに原宿の路上でばったり会ったのは、1990年代も終わりに近づいたころだった。
「久しぶり。福島さん、バカナル辞めたって聞いたけど、このあとどうするんですか」
と聞いた私に、福島さんはいつものひょうひょうとした顔で、
「いま新しい店作っているんですよ。半年ぐらい先かな、出来たらご連絡しますんで、来てくださいね」
と話してくれた店が、2000年に白金プラチナ通りにオープンした「モレスク」だった。
プラチナ通り沿いにオープンといっても、木製の壁が周囲を囲み、外からは店だということはまったくわからないし、もちろん看板はない。
当時はまだネットが普及していなかったから、モレスクの開店は、東京のごく一部の情報通にしか、知られなかった。
中に入ると幅広のカウンターが目につくが、特徴的だったのが奥にあるアイランドタイプのシェフズカウンター。いまでこそポピュラーだが、当時は(少なくとも私は)はじめてみるレイアウトだった。
個室やテーブル席もあるが、メインは横に長いカウンター。その中でニコニコと迎えてくれたのが福島さんだったのである。
シェフはのちに系列店「オー・ギャマン・ド・トキオ」料理長に就任する木下威征さんで、福島さんはカウンターの中にとどまらず、シェフズカウンターやテーブル席へと動き回り、客と談笑しながら黒板に書かれた数多くのメニューを説明し、注文を取る。
「いま空いているグラスワインは好みじゃないんだよね。シラーが飲みたいんだけど、なにか新しいのあけてよ」
「このあいだのハンバーグは旨かったけど、今日はあれに目玉焼きのっけたのが食べたいんだけどなあ」
とわがままをいっても、福島さんはたいがいのことは叶えてくれる。
この店にたどり着けること自体が福島さんの顧客という証拠だから、カウンターの隣の客とはお互いすぐに仲良くなり、入るとすぐに周囲の客から「ひさしぶりだね」と声がかかる。まるで福島さんの自宅のダイニングに招かれたような雰囲気だ。「ここを知っていることがかっこいい」という風潮のはしりのような店だった。
話題の店の仕掛け人
福島さんはその後、白金に鉄板フレンチ「オー・ギャマン・ド・トキオ」を作り、恵比寿には伝統的なビストロ「ポ・ブイユ」を再現、オー・ギャマンを木下さんに譲って、そこが恵比寿に移転したあとの場所には、モレスクにいた星野さんをサポートして、彼の作る無国籍レストラン「酒肆ガランス」に参加するなど、最先端の店を次々とオープンさせた。
が、場所は違えども、どれも彼の自宅に招かれたような雰囲気なのは変わらず、その店を知っていて、常連のひとりに加えてもらえるのが客の喜びだった。
伝説のブラッセリー「オー・バカナル」
そもそも福島さんがレストラン・プロデューサーとして有名になったのは、原宿の明治通り沿い、パレフランスビルに仲間と1995年にオープンさせたブラッセリー「オー・バカナル」の成功だ。
パリのブラッセリーをそのまま原宿に持ってきたような店で、ここまでパリの雰囲気が味わえ、カフェ、ブラッスリー、ブランジェリーという3つの異なるスタイルが共存するスタイルははじめて。東京の最先端の人々がこぞって集まる店だった。いまは経営が変わっているが、それでも都内各地のオー・バカナルは当時の雰囲気を保っている。
福島さんはサービスのトップとして陣頭指揮を取り、いまのフレンドリーな営業スタイルの原型を作った。
そこで仲良くなった当時最先端の情報通の業界人たちにその後、モレスクやオー・ギャマンなど、福島さん独自の世界を招待していったのである。
だから常連客はみな、福島さんはサービスの達人だと思っているのだが、実は彼、料理業界の初期に鍛えられたのは三田の老舗フレンチ「コート・ドール」の厨房なのだ。
パリの「ランブロアジー」を三つ星にした功労者ともいわれる斉須政雄シェフのもとで修業し、私は彼がコート・ドールを辞めて独立した最初の店、代官山「ブラジエ」時代からの知り合いでもある。
ブラジエができたのは1987年、彼が27歳の時。代官山の八幡通り、かつてのNTTビルの近くにあるビル2階にあった、カウンターだけの小体な店だった。
白を基調とした清潔な内装で、ネットにはこの店の情報がまったくないので記憶を辿るしかないが、メニューはコート・ドールの料理を思わせる、オーソドックスなビストロ料理が中心だったと思う。
だがこの店で一番かっこよかったのは、炭火の焼き台があったことだった。当時、目の前で塊肉を焼く店、しかもそれがカジュアルで小さなビストロなど、東京にはどこにもなかった。豚や羊をオープンカウンターの脇にあった焼き台でじっくりと焼き、それを目の前で切って供するスタイルは、いまでこそ当たり前だが、私は福島シェフにはじめて教わったといっていい。
「あのときやってたことって、20年早かったよねえ」
当時の話になるとお互い、そう言って笑うのが決まりごとになっているが、料理だけにとどまらず、客に出すまでのすべてが、「キマっていた」のが当時の福島さんだったのである。
数年で閉店したブラジエの看板は、原宿にあったオー・バカナルの地下におりる階段に掲げられてあった。それくらい、福島さんには愛着があった店だったのだろう。そして、その経験がきっと、いまの福島さんの店作りに現れていると私は思っている。
2016年、たどり着いたちいさな隠れ家
福島さんは昨年、白金高輪に「福しま」というちいさい店をこっそり開いた。もちろん、看板もなく、ネットで検索しても住所がないから、探し当てるのはかなり難しい。インスタグラムのハッシュタグに上がってくる程度だ。福島さんに言わせると、
「今度の店は、引退したプロ野球選手が作った草野球のチームみたいなもんですね。自分の好きなことしかやらないしね」
というコンセプトだが、なかに入ると、モレスクで彼が確立した「店の匂い」が濃厚に立ち上るアートディレクションになっている。というよりさらに進化し、もう客席も福島さんも渾然一体となって楽しむ店だ。
「ちょっとごめん、これから友達と出かけるから、あとは適当に楽しんでね」
と客に言い残して、出て行ってしまうこともあるが、客はなんとも思わない。だって勝手知ったる友達の店なんだから(もちろん、スタッフはいるけど)。
ただ、ここがほかの店と違うのは、福島さん自ら包丁を握り、料理を作っていること。どこの家庭にもあるような「おそうざい」が中心で、スペシャリテは餃子というところが面白い。
「餃子をスペシャリテにするつもりはなかったんだけど、みんなからすごくリクエストが多くなってね。面倒くさいから2、3人のグループから注文が来るたびに20個くらい一気に焼いて出していたら、それがまた人気になっちゃって」
と福島さんは笑う。
もちろん、彼が若い頃修業したコートドールや、独立したときのブラジエの料理とは違うが、これがいま、福島さんが一番やりたいことなのだろう。
芸能人や有名人も当たり前のように隣に座っていて、だれもが友達という、まさに福島家の住民たちの隠れ家だ。
◆今回の話に登場した店
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