カフェの在り方が多様化している今、オリジナリティ溢れる「わざわざ足を運びたい店」が全国に点在する。そんなコーヒーのある風景を求め、カフェオーナーのリレー形式で店を紹介していく当連載。

 

Vol.2 豆香洞コーヒーのオーナー後藤直紀さんに紹介していただいたのは、老舗旅館『亀の井別荘』にある茶房『天井棧敷』のブレンドコーヒーも手がける、週末のみ営業の隠れた名店。その道40年の焙煎職人は、「後藤さんの紹介なら断れんよね(笑)」と普段なら躊躇する取材を快く受けてくれた。

 

むかしの珈琲事情など興味深いエピソードも満載。これを読めば、今日の、明日の、これからの1杯が変わるはず。さあ、珈琲の時間旅行へ!

【コーヒーショップホッピング】

Vol.3 「コーヒー×自家製ケーキ」大分・湯布院 珈琲工房 木馬

今回は大分県由布市、観光客で賑わう湯布院駅から車で15分ほどの塚原高原へ。豊かな自然の中にそっと佇むのが『珈琲工房 木馬』。隠れた名店はその在り処も裏切らない。

 

「地元の人がほとんどだけど、珈琲が好きな人はいろいろ調べて遠方から来てくれるね」と、そう語るのはオーナー焙煎士の小野悦典(よしのり)さん。珈琲のこと、焙煎のこと、さらには奥さまのヤスコさんが作る常客に大人気の自家製ケーキについてもお話を伺った。

今でも覚えている感動の一杯

吉祥寺にあった喫茶店『もか』の店主・標 交紀さんの著書。どれほど読み込み、大切にしてきたかが伝わる

 

とにかく珈琲が好きで、上京していた学生時代は喫茶店に行くのが仕事みたいだったという小野氏。時代は1970年代はじめ、もっともお気に入りだったのは今は無き吉祥寺の『もか』。店主は“珈琲の鬼”と呼ばれるほどの伝説を残した標 交紀(しめぎ・ゆきとし)さんで、当時はめずらしい自家焙煎とネルドリップの店だ。

 

「本当においしい珈琲だったね、もかさんは。自家焙煎の先駆け的な存在。感動するおいしさって人生でそんな何度も出合えるもんじゃないから、今でも覚えていますよ」

 

その頃、日本の珈琲はインスタントが主流。日本に入ってきた生豆の状態は決してよいとは言えないにもかかわらず、かなり高額で取引されていたそうだ。

 

「当時は大手企業や商社の人たちが注射を何本も打って命がけで産地に渡って情報や豆を仕入れてくる……すごい世界だったんですよ。ぼくが大分に戻って自家焙煎の喫茶店をやりたいと言ったとき、焙煎は個人がするもんじゃないと言われ、誰も生豆を売ってくれなかった。とくに地方だったしね。生豆を買うなら60キロからとか。ブルーマウンテンを仕入れるのに車を売った(人がいる)なんて話も聞きましたよ(笑)」

珈琲人生、すべて出会いから

「それでも、楽しい時代でしたね。人間関係がないと成り立たないわけだから」と、その言葉通り、ある人との出会いによって小野氏の珈琲人生がはじまる。

 

「ぼくの師匠は福岡・八女にある喫茶店『亜米利加』のマスター。福岡で修行して一心不乱に焙煎をやってるって聞いて(笑)。ネットがない時代だから店を探すのも大変。やっとの思いで辿りついて中に入ったら、すごく優しく受け入れてくれた。そこで教えてもらった焙煎は浅煎りでした」

 

そして、1977年。大分県玖珠郡の山奥に念願の喫茶店をオープンさせた。

 

「最初の焙煎機は、人づてにあちこち行って毎日通って仲良くなって、なんとか頼んで譲ってもらいました。師匠には“タンポポのように地に根をはれば、あとはわた毛のように自由に飛べる”って教えをいただいて。それで自分の道を決めました。自由って飢えに耐える覚悟でもあるんですよね」

 

ほどなくして、近くで同じく喫茶店を営んでいたヤスコさんと結婚。「さあ、これから」と思った矢先、裏の家具屋で起きた火災に巻き込まれてしまう。

ゼロからの出発と、命がけで守る天井棧敷ブレンドの味

火災現場から奇跡的に持ち出せた焙煎機は、やはり手放すことができないという

 

「ほとんど焼けちゃったんですよ。危険だから入るなって言われたけど、釜だけは出さんとってカミさんと2人で入って。それで無事に出てきたのが焙煎機の釜とカップとレコード。これはもう珈琲をやれっちゅうことだってね」

 

その頃、小野氏が通っていたのが『天井棧敷』。珈琲を卸させてほしいという話もしていたのだそう。

 

「当時のオーナーが、焼けたんなら『天井棧敷』に来ないかって言ってくれたんです。まさか焼けたおかげで自分の願い通りになるなんて。ただ、この茶房を始めた人はパリの16区に住んでいた絵描きさんで、扱っているのは深煎りの珈琲。福岡で教えてもらった浅煎りから焙煎を変えるのは大変でね。でも、店で出す珈琲のすべてをぼくに任せてくれたから絶対に逃げられない。その時も今も、ずっと命がけですよ(笑)」

“おいしい”を追い続けたい

「いちばん幸せなのは焙煎機の前に立って豆を焼いてるとき」と語る小野氏

 

独立して焙煎工房を構えたのは、それから2年後のこと。

 

「やっぱり一人じゃないとね。ぼくらの時代は温度計しかないから舌に徹底的に教え込む。とにかく焼いて、いい豆だけを納品。喫茶店をしてる暇はなかったね」

 

しかし、自分としか向き合わない日々が続くと「おいしいってなんだろう」とわからなくなってしまうこともあったそうで、お客さんの意見を聞きたいとの想いから工房に喫茶店を併設し、いまに至っている。

 

「もう40年経つの?って感じだよ。最近やっと光が見えてきたところ。珈琲は本当に奥が深いんだよなあ」

『豆香洞コーヒー』後藤氏との交流

「福岡の焙煎士さん数人で店に来てくれたんだけど、そのひたむきさが印象的で似たものを感じたっていうか。それから本に豆香洞さんが載っていたのを見てカミさんと行ったんだよね。その何年後かにチャンピオンになられて。数値とかデータとか、次はぼくらの世代が教わりにいかんとねえ(笑)」

たくさんの“出会い”が彩るしあわせ空間

左上:『カフェ・バッハ』田口護氏の著書など。「自家焙煎において田口さんの存在は大きいよね」

写真ほか:珈琲好きが高じてその歴史を研究した木版画家・奥山 儀八郎さんの作品や著書から、何十年来の常客の俳句までさまざま

 

10席ほどの店内は、いたるところに出会いの軌跡が散りばめられていて陽だまりのようなあたたかい雰囲気。「ジャズが好き」とのことでレコードもたくさんあるのだが、BGMはカーペンターズ。小野氏曰く、「いい時代の音楽だし、しあわせな気分になるでしょ?」。

飲み終わった後、もう一杯飲みたくなる味を。

上:秋色ブレンド680円と塩チョコクッキー(スイーツは日によって異なる)。最後まで珈琲本来の味を楽しめるようにと、ミルクではなく分離するフレッシュクリームが添えられている

下:試飲はその時のおすすめなどをデミタスカップに注いでくれる

 

珈琲メニューはブレンド4〜5種類とシングルオリジンなど多数。いろんな珈琲に出合ってほしいとの想いから、オーダーしたものとは違う珈琲をデミタスカップに注いで試飲させてくれる。

 

「味覚を育てるって大切なこと。豆を買いに来た人にも試飲してもらいます。理想はその人の定番の味と何かを買って自宅で楽しんでもらうこと。毎日でも飲みたくなる、そんな珈琲を届けたいですね」

湯布院映画祭で育てられたブレンドが飲める?!

抽出はペーパードリップ。「湯布院は癒やされに来るところだから、心を包み込むような珈琲を点てたい」

 

日本でもっとも古い歴史をもつ湯布院映画祭。実はその会場で小野氏が珈琲を振る舞っている。

 

「監督とかフィルムをやってる人って、むかしから珈琲好きが多いんですよ。しかも厳しい(笑)。映画祭のたびにいろいろ注文をつけられて完成した味。まあ、職人は叱られて注文つけられて成長しますから嬉しいこと。うちの深煎りのメインは、この“映画祭ブレンド”です」

主役の珈琲に寄り添う、素朴な味わいのケーキ

「豆の個性を引き出しながらも飲みやすく整える」そんな木馬流の自家焙煎珈琲と一緒に楽しみたいのが、奥さまが作る自家製ケーキ。「食いしん坊だけが頼りの独学」と笑う小野氏だが、その“おいしいものセンサー”の感度は高い。取材中も湯布院のおいしいものをたくさん教えてくれた。

 

ケーキについては「あくまで珈琲が主役。でも、わざわざここまで来てくれるんだから、しあわせな気分をさらにプラスできたら嬉しい」と。そんな口福ケーキがこちら。

季節のケーキ&スイーツ

上:ケーキセット モンブランのセットのみ900円 ※例年10月末頃まで

下:栗の渋皮煮も珈琲によく合うのでおすすめ。りんごは紅玉が終わるとゴールドなど手に入るものでタルトに

 

秋がやってくると、必ず常客から「いつから?」と問い合わせが入る人気のモンブラン。栗は9月に収穫できる早生品種からスタートし、甘みが強い“栗の王様”と呼ばれる利平に替わり、そのあとは手に入るもので10月末頃まで。今年は残念ながらそのシーズンはもう過ぎてしまったが、来年まで首を長くして待つとしよう。

 

そして、モンブランが終わりを迎える頃に登場するのは、紅玉で作るタルトタタン。旬の時期が数週間とも言われる紅玉は、香り高く酸味が強いためお菓子作りにぴったりなのだとか。冬のバレンタインシーズンはトリュフ、春はイチゴのショートケーキ、夏はオランジェのショートケーキなど、どの季節も魅力的な口福スイーツに出合える。

懐かしさを感じるファーブルトン

ケーキセット850円

 

フランス・ブルターニュ地方の伝統菓子ファーブルトン。外はカリッ、中はもっちりしていてカヌレのような食感が楽しめる。リキュールに漬けたプルーンのオトナ味とほどよい甘味が絶妙。

はずせない定番!ガトーショコラとベイクドチーズケーキ

小さめポーションの盛り合わせは取材撮影用なのでご安心を

 

フランス産チョコレートを使用した濃厚な味わいのガトーショコラと、4種類のチーズを組み合わせて作る爽やかなベイクドチーズケーキがこちらの定番。ケーキに使われている卵は、ある有名フレンチ店の卵料理でも使われているという「寺床の自然卵」。素材選びに厳しく、風味は優しく。小野氏と同じ、奥さまもまた“おいしいに妥協なし”なのである。

営業日は要チェック!

取材当日はあいにくの雨だったが、晴れていたら気持ち良さそうなテラス席

 

せっかく遠方から訪れるのであれば、営業時間を念頭に置いて予定を組むのがおすすめだ。通常営業は金・土・日曜の週3日、13:00〜17:00の4時間だけ。8月と12月のギフトシーズンはまるっと喫茶が休みになる。

 

「もう何十年も豆を注文してくれてるお客さんが多くて、焙煎と配達に専念する時間が必要で。最近は並んで待ってくれるお客さんもいて申し訳ないんだけどね」と小野氏。テイクアウトできるのでドライブのお供にもぜひ。

店主の重い腰がやっと……インターネットで買える日も近い?

珈琲豆はFAXやメールでの注文も可能だが、もともとは常客のために始めたサービス。実は「顔がわからん人に豆は売りたくない!」と言い続けていたそう。しかし、その想いに変化があり、初めての人でも購入しやすいネット通販を検討していると教えてくれた。 それは、珈琲に40年間向かい続け、ようやく見えてきた「光」につながっているのかもしれない。

 

【次回予告】コーヒー研究所に潜入?!科学的視点で楽しめるカフェ

「珈琲に捕まっちゃった!」と茶目っ気たっぷりの小野氏に紹介していただいたのは、世界初となる特殊な焙煎を発明した人物。その特殊焙煎の珈琲が飲めるカフェには研究所が併設されているとか。すこし違った視点からお届けするコーヒー連載……お見逃しなく!

 

取材・文・撮影:武田梨江