【森脇慶子のココに注目】「虎景軒(フージン)」
昨年11月の開業以来、名古屋からは天ぷら「にい留」、京都からは「富小路 やま岸」、そして「フロリレージュ」に「食堂aca」、「鳥しき」の姉妹店「鳥おか」などなど。予約至難の名店が次々にオープンしている麻布台ヒルズ。今、東京で最も熱い美食スポットといっても過言ではないだろう。
その麻布台ヒルズに隣接して立つ「ジャヌ東京」直営のコンテンポラリーチャイニーズ「虎景軒」もまた、名うての食通らの期待を集める話題店の一つだ。2024年3月13日のホテル開業とともに産声をあげた同店だが、注目度の高さは、ただ単に、今人気のホテルにオープンしたから、というだけでは決してない。その理由の一つは、ひとえに料理長を任された山口祐介氏の経歴と力量にある。中国料理「JASMINEグループ」の総料理長を務めた料理人と言えば、膝を打つ中華ラバーも多いのではないだろうか。
中学1年生の時、横浜中華街で初めて食べた“東坡肉(トンポーロウ)”に感動した山口少年。「それまでは、ラーメンのチャーシューが僕にとって一番のご馳走でしたが、東坡肉はそれを上回るおいしさでした」と当時を振り返る山口シェフは、これをきっかけに中国料理に魅せられていく。それからは、お小遣いを貯めては片道1時間以上もかけて中華街まで頻繁に食べに出かけたという。
卒業後は、迷うことなく中華一筋。小石川「豫園」(現在は閉店)、グランド ハイアット 東京「チャイナルーム」等々で修業。「JASMINEグループ」で9年間、総料理長として才腕を振った後、2019年には浙江省台州にある「星野リゾート 嘉助天台」の総料理長に抜擢され、待望の大陸へ。2年半、現地の空気を肌に感じて昨年帰国。「虎景軒」の料理長に就任した中国料理の雄だ。
江南地方の名菜や郷土料理の探求をライフワークとし、かつては、それをコンセプトにした「JASMINE憶江南」なる中華料理店を中目黒に開いたこともある山口シェフ。それだけに、同店も上海(江南)料理が主軸と思いきや、意外にもメニューはオールスターズ。「麻婆豆腐」や「よだれ鶏」等の四川料理から「北京ダック」、福建料理の名菜「佛跳牆」や広東料理でおなじみの「清蒸魚」もあれば、蘇州風の鮮魚の甘酢あんかけまで、各地方の料理がずらりと並ぶメニューは圧巻だ。
山口シェフによれば「中国で2年半余り暮らして気づいたのは、当たり前のことですが、“現地のレストランの料理はどんどん進化している”ということです。日本の中国料理は、現地の20~30年前の中国料理といった印象ですね。調味料にしても食材にしても、現地では既にボーダレス。地方の垣根は越えてますね」とのこと。それゆえ、ここでは中華の地方フュージョンを提案。そのいい例が、夏のおすすめメニューの一つ「マッドクラブ 翡翠に仕立てた文思豆腐と卵の芙蓉蒸し」だ。
“文思豆腐”とは、揚州地方に伝わる伝統料理で、清朝乾隆帝の時代に揚州天寧寺の文思和尚が考案したと言われている精進料理の一つ。いわば豆腐の千切りスープなのだが、軟らかな豆腐を素麺の如く細く切るのは、まさに手練の業! 山口シェフは、この文思豆腐を翡翠色も美しいほうれん草のスープ仕立てにし、下には、広東の家庭でもおなじみの“蒸蛋”こと茶碗蒸しを忍ばせている。上にのせたマッドクラブがホテルらしい豪華さを演出したこの一皿は、揚州料理と広東料理を融合させた佳品となっている。
また、「本日の鮮魚 潮州風レモンガーリック蒸し 蟠龍仕立て」は、通常は一尾丸ごと蒸すところを龍に見立てる趣向も見事。見た目の美々しさと共に、取り分けやすさや食べやすさも考慮した盛りつけが秀逸だ。山口シェフによれば、潮州料理では、塩レモンやニンニクと共に魚を蒸すことが多いそうで、爽やかな酸味と塩味が、食欲を一層増してくれるはず。
前述の2品は、6名以上の個室利用でおまかせコース(1名28,000円〜)を予約した場合に提供される料理となっている。ディナーコース自体は21,000円から用意されており、アラカルトメニューも豊富。山口シェフ曰く「昔ながらに、大皿をシェアして食べる中国料理ならではの醍醐味を味わってほしい」とのこと。そこには、ホテル全体のコンセプトでもある“人と人とのつながり”を反映する意味合いも込められている。
※コース価格は取材時の料金
料理の提供スタイルは昔ながらでも、料理はコンテンポラリー。伝統の味をきちんと継承しつつ、軽妙かつ繊細なテイストが「虎景軒」の料理の特徴だろうか。加えて、ジャヌのテーマでもある“ウェルネス”もメニューに表れている。「蒸し鶏の冷菜 上海風葱と生姜の翡翠ソース」もその一つ。従来ならば皮つきの腿肉を使うところだが、同店のそれは鶏胸肉のみとグッとヘルシー。火入れも絶妙なしっとりと柔らかい胸肉のうまみを引き立てているのが、葱の香りと色を移した色鮮やかな翡翠色の葱油。そしてシブレットや生姜の薬味たちだ。この葱油も、中華で一般的なサラダ油や白絞油ではなく、ピュアオリーブオイルを使うなど、健康に配慮する姿勢がうかがえよう。
中国の古典料理をこよなく愛し、造詣の深い山口シェフ。「虎景軒」の料理は、そんな山口シェフなればこそのアレンジが一番の魅力だろう。先の蒸し鶏もそうだが、確かな知見に裏打ちされた料理は、創意的であっても、中国料理の軸から決して外れていない。というのも、古典を基本とし、それを現代に照らし合わせ、山口シェフ自身がよりおいしいと思う形にリミックスしているからだ。そのいい例が「虎景軒スペシャリティ 黒毛和牛フィレ肉ペンジャ産黒胡椒炒め 黒にんにくソース」だろう。
「広東料理でおなじみの牛肉の黒胡椒炒めですが、牛肉の醍醐味をもっと前面に打ち出したくて通常のようなスライスではなくサイコロ状にカットしました。そして、サーロインでは重いと思い、シャトーブリアンにしてみたんです」と山口シェフ。そのシャトーブリアンも、ジューサーにかけた玉ねぎで半日マリネして繊維を柔らかくするなど隠れた一手間もおいしさのポイント。
また、中華にありがちな“片栗粉のとろみ”はつけず、バターや醤油、ニンニク、エシャロットで炒めてソースを乳化させ、自然なとろみをつけ、香り高いベンジャ産黒胡椒でアクセントをつけている。ソースのキレも良く、カリッと香ばしい表面と中の柔らかな肉質とのバランスの良さには、思わず笑みが溢れる。調味料にマスキングされることのない和牛ならではのうまみが、噛み締めるほどに舌に広がる。シグネチャーディッシュにふさわしい逸品だろう。
中には、北京ダックのようにオーソドックスな味はそのままに、本来なら表舞台に立たない肉の部分をここではリエットにして提供。サステナブルな観点に立つ姿勢も、ジャヌらしい。
赤を基調とした店内は、天井が高くドラマティックでありながら、堅苦しさは無い。華やかさの中にも落ち着きがあり、カジュアルモダンな空間は、さまざまなシチュエーションに応えてくれそうだ。
※価格はすべて税・サ込