食べログフォロワー数2トップが緊急対談! 平成のグルメシーンを振り返る

【第1回】レストランはデートの舞台から、よりディープな趣味の世界へ

新しい時代、令和を目前に食シーンにおける平成を総括! 食べログ・フォロワー数1位に輝く川井潤さんと、同じく2位柏原光太郎さんが登場。平成の外食シーンを実体験し、テレビや雑誌、書籍で食トレンドを牽引した重鎮たちの対談を進行するのは、フードライターとして活躍する寺尾妙子さん。平成の31年間における食の変遷とはいかなるものだったのか。3回に渡る短期集中連載がスタートです!

 

デートの店選びはガイドブックや雑誌が定番

 

ーー今日は平成の食シーンを振り返っていただく企画ですが、平成元年というとお2人は何をされてたのでしょうか?

 

川井 当時はバブル全盛期。僕は30代前半で、博報堂でマーケティング部のディレクターをやってたかな。昭和63年(1988年)6月にマガジンハウス『Hanako』(※1)が創刊した直後で、OLさんもグルメや海外旅行を大手を振って楽しみはじめた時代。僕も雑誌で話題のお店をチェックして、女性や外部の人と食事に出かけてた。

川井潤さん:フードビジネスも含め幅広い企画&プロデュースを行う、企画プロデューサー。 博報堂DYメディアパートナーズでマーケティング、コンテンツ企画、新規事業などを担務。 一方でテレビ番組「料理の鉄人」ブレーン(1992年〜97年)も務めた。 現在、企業や地方自治体などへのアドバイザーも務める。ここ数年は、地域や食のため、料理人の地位向上のために日本中のみならず海外まで出かけている。 食べログフォロワー数日本一。幻冬舎ゲーテWEB、食雑誌dancyuなど雑誌等への執筆多数あり。

柏原 僕は26歳で『週刊文春』編集部にいました。あの頃は食べログもなかったから、雑誌やガイドブックが情報源。気になる女性を誘うために、事前に調べて予約を入れたりなんかして。料理評論家の山本益博さんの担当をしたこともあって、山本さんには随分教えていただきました。「食べ手」という言葉は昭和57年(1982年)に出た『東京・味のグランプリ −勝ち抜いた59軒』で山本さんが使ったのが最初じゃないかと思うんです。考えてみると平成を通じて、食べ手を担う人々やそのスタイルが大きく変化しましたね。

柏原光太郎さん:日本ガストロノミー協会会長。大学卒業後、出版社に勤務し、グルメ本を手がけたことで食の奥深さに目覚める。料理は作ることも食べることも大好きで、中学生の娘の毎日の弁当と朝ごはん、週末の家ごはんを作っている。料理好きのための食の発信基地としての役割を担うべく2017年12月社団法人「日本ガストロノミー協会」を設立。

川井 平成の初めはさ、講談社『Hot-Dog PRESS』のデートマニュアル記事をお手本にあらかじめ段取りを組んで、本番に挑むというのがスタンダードだった気がする。

柏原 そうそう。昭和58年(1983年)にホイチョイ・プロダクションズ(※2)が出した恋愛ハウツー本『見栄講座 ―ミーハーのためのその戦略と展開からの流れがあって。この本でワインや料理の頼み方を学んだなあ。で、平成初期を代表する料理ジャンルがイタリアンでした。

川井 そう! 平成元年にオープンした「イル・ボッカローネ」が大ブレイク! 勢いよく「ボナセーラ!」(※3)って迎えてくれてさ。

「イル・ボッカローネ」の看板メニュー、パルミジャーノレッジャーノのリゾット  写真:お店から

柏原 「イタメシ」「ティラミス」も大流行。そして、それまでは「スパゲッティ」と呼んでいた麺をみんなが「パスタ」と呼ぶように。

 

川井 あと、みんな車で移動してたからさ。当時、珍しかったオープンキッチンをいち早く取り入れた「バスタ・パスタ」(※4)の横の駐車場に車を停めて、よく食事したものだった。

 

−−去年、青山にオープンした「テストキッチン エイチ」はバスタ・パスタのシェフだった山田宏巳さんが、あの頃の華やかさを再現したくてつくったお店だそうですね。

「テストキッチン エイチ」の店内 出典:ミトミえもんさん

柏原 とにかく、かっこいいお店だった。例えば、白い模造紙がテーブルクロス代わりに敷かれていて、お勘定を頼むと、その上に書いて計算するんだよね。その後、「カノビアーノ」植竹隆政さんや「トラットリア ミキータ」(現在「ピアットキタミ」に改名・移転)北見博幸さんなど、平成を彩ったイタリアンの有名シェフをたくさん輩出した伝説的存在でした。バスタ・パスタのエレガント版が「ヴィ・ザ・ヴィ」で、この2つが何より大人の店でした。

 

−−バブル期って華々しいお店がたくさんあったらしいですね。「リストランテ マニン」には大きな階段があって、着飾った女性が下りてくると、みんなが振り返って見るという、ステージのようだったという話を聞いたことがあります。

 

柏原 フレンチは「オテル・ドゥ・ミクニ」(創業は昭和60年・1985年)や「ロアラブッシュ」(創業は昭和56年・1981年)のような館系、グランメゾンが流行ってましたね。

 

川井 女の子もピンヒールやハイヒールを履いてたし、みんな背伸びしてたよね。

 

柏原 それから「エムザ有明」の山本コテツさん、「レッドシューズ」の松井雅美さんなど、空間プロデューサーが手がけた店もありました。

 

川井 カフェバーとか(笑)。

 

−−で、そういうおしゃれなお店には基本、デートで行っていたと。

 

川井・柏原 そうそう。

川井さん直筆の「平成年表」。

バブル崩壊、もつ鍋ブーム、そして

−−バブル崩壊は平成35年(19911993年)ですが、それ以降もしばらくはみなさん結構レストランに出かけていて、そんなに景気が悪くないイメージだったんですが。

 

川井 一応、平成4年(1992年)には不景気というキーワードの下、もつ鍋ブームとかもあったんだけど。

 

柏原 それでも全体的に見ると、この不景気は一時的なものだと思おうとしていた(笑)。平成元年にはボジョレー・ヌーボーが流行って、平成7年(1995年)に田崎真也さんが世界一のソムリエに選ばれたことで空前のワインブームに。日本人がワインに目覚めていく過程でもあり、飲食にお金を使える人が多かったのでは?

 

川井 それが平成11年(1999年)頃に激変!

 

−−何があったんですか?

 

川井 どこの会社も経費が使えなくなったんだよね。平成ヒトケタ代までは会社の経費はわりとふんだんにあって、いいお店にも行けていたのが、一気にダメになっちゃった。

 

−−経費でいいお店に行ってたんですか!

 

川井 昔はなんでもアリだったから(笑)。

 

柏原 ところが、平成も終わろうとしている今、メディアで話題になるようなお店で1人客が増えている気がします。

 

川井 以前は会話するためのツールが美味しい食事だったけど、今はそのものが目的になってきている。昭和や平成初期は車やらブランド品やら海外旅行やら、欲しいものやりたいことがいっぱいあった。けれど、消費出口が食べ物しかなくなりつつある今、食べログのレビューをはじめ、 SNSやブログを使って、自分でレストラン記事を発信できるようになってから、そういう人たちが記事をアップするために、どんどん1人でも店に出かけるようになった。

 

柏原 今、Facebookのイベントページを通じてオフ会もできますから、お店を貸し切ってから行く人を募集して、初めてリアルで会う人たち同士で席を埋めるということも流行ってますよね。これも平成の末期に出てきた現象で、この傾向はまだまだこれからも続く気配です。

 

 

【平成を知るためのキーワード】

1 Hanako  「キャリアとケッコンだけじゃ嫌!」というキャッチフレーズで昭和の末に創刊。雑誌で初めて「イタ飯」という言葉を使ったとも言われ、ティラミスブームの牽引役も担った。

 

2  ホイチョイプロダクションズ  代表の馬場康夫氏を中心としたクリエイター集団。バブル景気以降の流行を仕掛け、1994年発行の「東京いい店やれる店」は当時の若い男性のバイブルに。

 

3   ボナセーラ系イタリアン 入店すると「ボナセーラ!」と挨拶され、数を数えるときは「ドゥエ、トレ、クアトロ」などイタリア語が飛び交う店内。「イル・ボッカローネ」がその第一人者。

 

4 バスタ・パスタ 1985年オープンのイタリアンレストラン(2000年閉店)。山田宏巳シェフが提供する「江戸前イタリアン」とオープンキッチンが中心の劇場型レストランで人気に。後に日本のイタリアンブームを形成していくスターシェフを多く輩出したことでも知られる。

 

「第2章 平成、それはシェフがスターになった時代」に続きます。

 

撮影:松園多聞(対談)