異色の天才シェフが数十年にわたって作り続けるスープ

僅かに赤みがかかった、茶色ともダークグリーンとも付かぬ色合いをした一杯のスープ。お世辞にも「美味しそう!」とは言えぬ、そのややざらつきのある液体をひと匙すくい、そっと鼻先に近づければ、芬芬たる磯の香気に包まれる。ひと呼吸おいて、まずは一口。静かに口へと流し込むや、一言では言い表せぬ豊かな味わいがじわりと味蕾に広がっていく。様々な魚の香りや旨みが凝縮された、まさに海のエキスの塊とでもいうべきこの一杯が、ここ「ヌキテパ」の、“磯魚の裏ごしスープ ニース風”。異色の天才シェフ田辺年男氏の、40年近く変わらぬスペシャリテである。

初めてこのスープを口にしたのは、もうどれぐらい昔の話になるだろうか。伝説の名店「あ・た・ごおる」……。バブル崩壊前の1988年、田辺シェフが恵比寿の外れで始めたこの店は、(店主同様?)当時のフランス料理店としては異色だらけのレストランだった。何しろ肉が一切出ず、コースに登場するのは三崎の魚(当時)と畑直送の無農薬野菜のみ。そのコースの一品として出されたのが、ご覧のスープである。一口目はやや塩気を強く感じるものの、やがてそれは旨みへと変わり、濃密な余韻を舌に残す。ありがちな“スープ・ド・ポワソン”とは一線を画す、このガツンとくるインパクトの強さこそ、まさに田辺料理の真骨頂だろう。

じっくりと手間をかけるからこそ出せる、格別の味わい

田辺シェフ曰く「うちの磯魚のスープには、蟹や海老などの甲殻類は一切入れてないんだよね。文字通り磯魚のみ。そのかわり(魚の)内臓や鱗は全部入れている」そうで、だからなのだろう。甘みの微塵もないキリリとした男前な味なのだ。「その日に仕入れる魚によって種類は変わるけどね、使う魚はいつも5〜6種ほど。今日のところは、カサゴ、キンキ、ヒラメにアイナメ、イトヨリあたりかな。」作り方を伺うと、これが実に手間がかかっている。

 

まず、魚のアラを香味野菜とともに鍋に入れて白ワインをふりかけ、軽く炒めてから蒸す。アラに火が入ったら、トマトとサフラン、そしてフェンネルやタイム、エルブドプロヴァンスも入れ、水を適量加える。ここで残ったフュメドポワソンを入れることもあるそうだが、「基本、水で充分。余計な旨みはいらないからね。(鶏や牛の)ブイヨンを入れたりするのは全く意味がない」が田辺シェフの持論。スープに限らず、田辺料理は全てこの持論に基づいている。つまりは、何を食べさせたいのか、その美味しさの本質をきちんと把握しているのだ。

さて、鍋が沸騰してきたらそのまま12〜13分火にかけ、スュエするように炒め、シノワで濾せば完成!と思いきや、まだ早い。それどころか、これからの作業が一苦労なのだ。シノワに残った魚の頭やカマなどのアラを、棍棒でガンガンと打ちつけ、叩き潰しながら裏濾すのだから重労働このうえない。だが、これこそが旨みの原点。味の要なのだから手は抜けない。アラの量が1/8ぐらいになるまで減れば、やっと作業完了となる。

「このスープの原型は、昔、ロジェ・ヴェルジェがシェフを務めていた『ムーラン・ドゥ・ムージャン』のレシピ。フランスでの修業時代、スープドポワソンを食べ歩いた中で一番美味しかったのがここで、厨房に入って教えてもらったんです。だから、使り方も使う香草も、レシピは何一つ変えてない」とは言うものの、ここは日本。そして魚も(現在は)熱海や小田原、沼津と日本近海で捕れたものばかり。となれば、畢竟、味は変わってくるものだ。ましてや40年近く作り続けてきたとなれば、田辺テイストが自然に加味されてきたことは、自明の理だろう。そう、この味わいはもはや田辺シェフのオリジナルと言っていい。

取材・文/森脇慶子

撮影/大谷次郎