〈そば百名店〉

なぜ自らそばを育てることにしたのか?

店主が自ら畑でそばを栽培している店は、そば百名店の中でも特別な存在。収穫量の少ない自家栽培のそばは常にメニューにあるわけではありませんが、たとえば巣鴨の「手打ちそば 菊谷」では年間数十日間、自家栽培のそばが出されています。

 

そば研究家の前島敏正さんによると、自家栽培のそばを供するそば店は、数は少ないながらも、近年少しずつ増加しています。

 

「そばの味の半分はどの産地のそばを使うかで決まりますからね。この傾向は今後も続き、そば文化を発展させる推進力となっていくのではないでしょうか」(前島さん)。

 

そばを自家栽培している店として前島さんが薦めるのは、「慈久庵」「眠庵」「手打そば 菊谷」。中でもそば栽培をきっかけのひとつとしてそば屋を開業したという「手打そば 菊谷」で、自家栽培のあれこれをうかがいました。

 

そば栽培は開業前から

 

巣鴨地蔵通り商店街の奥にたたずむ「手打そば 菊谷」は、そのオーソドックスな外観からは想像しにくいものの、関東の数カ所でそばを自家栽培している先端的なそば店です。店主の菊谷修さんは、経歴からして異色。大学卒業後、ゼネコン勤務時代に知人の畑仕事を手伝うようになり、その趣味が高じて開業したのが「手打そば 菊谷」です。一体なぜ畑仕事に携わるようになったのかと経緯を尋ねると、こう教えてくれました。

「話せば長くなりますが、最初にそば畑に出かけるようになったのは20代前半の頃です。きっかけは、『神田 和泉屋』が主宰するお酒の学校での、そばを栽培している方々との出会いでした。僕は当時、独学でそばを研究していたのですが、つゆの材料の醤油とみりんを買いに行った『神田 和泉屋』でお酒の学校の存在を知り、参加したところ、秩父でそばを栽培している仲間と出会い、手伝うようになったんです。畑仕事を手伝う日は、作業後、温泉に入り、秩父の名店『こいけ』(2016年閉店)でおそばとお酒をいただくのが常でした。『こいけ』では、畑で穫れたそばを精製して打ってもらっていたのですが、そのうちに弟子入りを認めていただくようになり、遂に2005年に石神井で開業したというわけです」

その後、実家が巣鴨で営んでいた仕立て屋を建て直し、1階をそば店に改め、石神井から移転。2階の作業場兼倉庫では“玄そば”(殻付きのそばの実)の自家製を始め、先述の知人から譲り受けた秩父の畑でそばの自家栽培もスタート。またしばらくすると、秩父の他の場所や奥武蔵、茨城県の金砂郷、千葉県の成田の畑でもそばの栽培を始め、活動の幅はとどまるところを知らぬ勢いで広がっていったのでした。

「大変なことは分かっていたのですが、『えーい!』と思い切りました。近くの農家さんの力を借りて二人三脚の体制をとっているんですけどね」

自家栽培のメリットは色々あるそうですが、大きな理由はふたつ。ひとつは生産者とコミュニケーションが取りやすくなることで、もうひとつは栽培過程に好きなだけ手間をかけられることだと言います。

「そばは一般的に75日で収穫しますが、早めに刈り取ると色がキレイな反面、未熟なものも多く、水分が多いためコンバイン(収穫機)に詰まりやすくなることもあります。そのため、僕は早刈りする時は手で刈って天日干しするのですが、手で刈ったそばは、刈った後も実が葉と茎の養分を吸い続けて甘みが濃くなっていきます」

 

こうした知識や手刈りの技術、後述の輪作栽培の伝統は、若い生産者には知られていないことも多いそう。そのため菊谷さんは、畑仕事を通じて、若手に伝統を継承していきたいとも考えています。

「そばの名産地である茨城県常陸太田市金砂郷の畑では、かつては最初にタバコ、次にそば、その次に小麦を栽培するという輪作の伝統がありました。ところが最近は高齢化でタバコ栽培を行なう農家が激減し、そばは現在、単作で栽培されています。このままでは輪作の伝統が途絶えてしまうと危惧しているのですが、じゃあタバコ栽培を復活した方がいいのか? それよりも新しい輪作体系を模索した方がいいのか? 今後はこういうことも考えていかねばと思っています」

 

近い将来ここで畑仕事に携わることを望む若者を受け入れるため、菊谷さんはそばの栽培拠点も秩父から同地に移しています。

 

金砂郷の地で栽培されたそばは、「手打そば 菊谷」の三種の利き蕎麦の中の1種として、随時提供されています。

 

あいにく自家栽培のそばがない日もありますが、そんな日は菊谷さんが実際に畑を訪れて買い付け、2階で自家製粉している手打ちそばを是非。そば前も楽しむなら、お薦めは名物の「さばの燻製」や「チーズのかえし漬け」などを盛り合わせた、1日6食限定の「おまかせ酒肴5品盛り」(¥750)です。これに定番の栃木の銘酒「四季桜」(1合)と利きそば(小)が付くお得なセット(¥2,500)も大好評。

 

さらにもう一品という場合は、茨城県西崎ファームの鴨のもも肉と千住葱を合わせた「鴨葱」(¥600)をどうぞ。菊谷さんは、そばはもちろん、鴨や野菜などの食材も「顔の見える生産者の食材を使う」ポリシーゆえ、料理はどれも素材の良さが光る逸品揃いです。

 

さて、そばの看板メニューは、産地や熟成年数の異なるそば2~3種を食べ比べることができる「利きそば」です。それぞれのそばは産地の個性に合わせて打ち方も切り方も調整されており、順番に味わえば、そばの産地や熟成期間によって風味、香り、その強弱が異なることに気付くでしょう。

 

たとえば写真の利き蕎麦は、1枚目(手前)が新潟県津南町産の在来種の蕎麦、2枚目(右奥)は打って切ってから2日間熟成させた秩父在来種の秋蕎麦、3枚目(左奥)は5日間熟成させた常陸秋蕎麦。最後の常陸秋蕎麦は緑の粒だけをセンサーで選別し、5年間冷蔵熟成させたものです。「粒が緑のものはタンパク質が酸化していないから爽やかなんですよ」と菊谷さんが言う通り、爽やかな風味が持ち味です。

 

撮影:上田佳代子