教えてくれる人
マッキー牧元
株式会社味の手帖 取締役編集顧問 タベアルキスト。立ち食いそばから割烹、フレンチ、エスニック、スイーツに居酒屋まで、年間600回外食をし、料理評論、紀行、雑誌寄稿、ラジオ・テレビ出演。とんかつブームの火付役とも言える「東京とんかつ会議」のメンバー。テレビ、雑誌などでもとんかつ関連の企画に多数出演。
長野でマッキー牧元さんの心を打った2軒とは?
あや菜
タベアルキストという、日々食べ歩くことを生業としている関係で、先々まで予約が埋まっている。だから今夜は、焼鳥が食べたい、イタリアンを食べたいから行くということがない。その夜も決まっていた。
松本市での夜は、ぎたろう軍鶏の焼鳥と決めていた。そして締めには「中華料理 美味城」でセキ炒飯だなと決めていた。
ところが焼鳥屋に行くと臨時休業の貼り紙がしてあるではないか。
そこでBプランの名酒場「きく蔵」に電話をかけるも満席、いきなり「美味城」で一人中華も味気ない。そこで食べログで色々探していたところ「あや菜」という店が匂った。いい店かもしれないという、風情が匂っている。
早速電話した。
「お一人ですか? はい。お席のご用意はできますが、子どもが1人走り回っていてうるさいですが、大丈夫でしょうか?」。変なことを聞いてくる。常連客の子どもだろうか?
「はい、大丈夫です、伺います」と、言って電話を切った。
店は、江戸~大正時代の蔵造りの建物が多く残る中町通りから少し入った、閑静なところにある。
「こんばんは、電話した者です」と、店に入ると、子どもと60代の男性客がいた。「いらっしゃいませ」と、40代前半の女性店主が挨拶する。そして「昨日まで満席で、お客さんをお断りしていたんですが、今夜は空いています」と、笑う。
ここにまず、小さな運命が転がっていた。
「すいませんうちの子なんです。私1人でやっているものでして。実は母とやっていたんですが、コロナで休業している間に体調を崩しまして、今施設に入っているんですよ。だからずっと休んでいて4月から再開したばかりなんです」
また小さな運命が転がっていた。
生ビールを頼むと、突き出しが運ばれた。
「サバの水缶と山菜を煮たものです、地元の料理なんです、こちらは、冷奴の上に、ホタルイカの沖漬けを添えたものです」
こりゃ大至急酒だなと思い。大雪渓の熱燗をお願いした。
さらに肴は、松本の郷土料理の「塩イカ胡瓜」と、“店主じかどり!”と(品書きに)書かれた「のびるの塩漬け」、“名物”と書かれた「鶏もつすき」をお願いした。
「どちらからですか?」
「東京です」
「なぜうちに来てくださったんですか?」。そりゃそうだ。
食べログでも3.09の店に、観光客が1人でぶらりとくることなど、珍しい。
「ネットで写真を見て良さそうだなと思い、電話しました」
「塩イカ胡瓜」は、新宿の信州料理を出す居酒屋で食べたことがある。海なし県らしい塩蔵イカを戻し、塩抜きしてきゅうりと和えた、なんてことない料理である。
だがそれは、以前記憶にある味より遥かにおいしかった。
イカの戻し方、きゅうりや茗荷の切り方、漬け汁とイカの塩気の塩梅の決まり方なぞ、ただものではない。
「のびるの塩漬け」も、葉先が茎にグルグルと巻かれ、美しい。塩の漬け具合が良く、白い部分の甘みと、葉先に向かって辛くなっていく加減がよくわかる。
「鶏もつすきは普段ネギだけなんですが、今の時期は山菜も入れてます」
砂肝に鶏肉、レバーを甘辛い味で閉じたすき焼きは、肝類の鉄分や苦み、甘みにネギの濃い甘み、そして山菜の香りと苦みが次々と舌に舞い込んで、酒をぐいぐいと飲ませる。
「すいません、この冷酒の女鳥羽の泉の純米山廃を燗つけてもらえますか?」
「はい。それでは今度はぬる燗がいいですね」
わかってらっしゃる。
うれしくなってきた。
いい酒場に出会えた運命に、幸せが満ちてくる。
すっかり仲良くなった隣の初老男性客は、運ばれてきた山菜天ぷらを「おいしい、おいしい」と言って、食べている。
「はい、これはサービス。隣でおいしいおいしいって言われたら、食べないわけにはいかないものねえ」
そう言って、コシアブラの天ぷらを出してくれた。店主自ら山に入ってとってきたものである。鼻腔の汚れが一掃されるような清い香りが吹き抜ける。
盃を重ね、最後に「ふきたっぷり味噌」とおにぎりを頼んだ。
その料理名に嘘はない。
ふきたっぷりと書かれたふきのとう味噌は、刻んだふきのとうに少しだけ味噌を入れましたといった感じで、通常のふきのとうと味噌の量が逆転している。
だからうまい。
だから酒が進む、
そして最後のおにぎりは、山菜のおにぎりだった。
「ポップとウドの新芽、こしあぶら、茗荷と胡麻を入れています」。
米が山菜の精気に触れて喜んでいる。
山の清き香りと米の出会いに、心はずむ。
「ごちそうさまでした。またいつかお邪魔します」
「ありがとうございます。またお会いできることを、楽しみにしております」
「今度はキノコの季節がいいですよ」。そう言って男性客が、また優しい笑顔を浮かべた。
もし焼鳥屋が臨時休業せず、人気居酒屋に席があったら、一生来ることはなかったかもしれない。このいただいた運命を太くするためにも、秋にまた訪れよう。