目次
【噂の新店】「汽素火」

東京・日本橋人形町の路地裏、花街としての風情を残す日本橋芸者新道の一角に、また一つ日本の食文化を揺るがす店が産声を上げた。2026年5月20日に開業した「汽素火(キスイ)」だ。
店名は、海水と淡水が交じり合う「汽水域」に由来する。異なる背景を持つ人間が交わり、選び抜かれた素材が出会い、確かな思いが重なり合う場所でありたいと願いを込め、名づけられたそう。

店をけん引するのは、異なる日本料理の名店で研鑽を積んだ2人だ。料理長を務める部谷直希(へやなおき)氏は、国立大学の文学部を卒業後、横浜の天ぷら店の門を叩き、飲食の道へ。銀座や赤坂、西麻布などの日本料理店や割烹で修業し、料理長も経験した。
一方、サービスや空間演出、顧客体験の設計を担う柴田丈(しばたしょう)氏は、体育大学在学中にアルバイトをした居酒屋で、日本酒と魚料理の奥深さに魅了され、そのまま飲食の世界へ転身。その後、自由が丘の和食店で部谷氏と出会い、互いの才能を認め合った。
2人は将来の独立を見据え、それぞれに不足していた領域を補うため、あえて別々の名店へと身を置いてさらなる修業を重ねた。部谷氏が港区にある日本料理の名店で料理の腕を磨き上げる間、柴田氏は「赤坂おぎ乃」で1年半、日本料理の技術やサービスを学んだ。

茶室を意識したという店内は18坪ながらわずか7席で、5メートルに及ぶ一枚板のカウンターが主役を果たす。ここで提供されるのは、33,000円のおまかせコース一本だ。
コースを構成する14〜15品のうち、天ぷらは4〜5品を占める。しかし「汽素火」が看板に掲げるのは「天ぷら店」ではなく、あくまで「日本料理店」。茶の湯の心を表した伝統的な懐石料理のフォーマットを守りながら、その流れの中に天ぷらを独自のバランスで溶け込ませる。
1℃単位の温度制御で生まれる、究極の口溶け「自家製豆腐のすり流し」

コースの幕開けを飾る1品目は、極限までなめらかに仕上げた「自家製豆腐のすり流し」だ。豆腐に使われる豆乳は、癖が少なく大豆本来のピュアなうまみが引き立つ銘柄を、5〜6種類比較して選定されたもの。にがりには、淡路島の天日塩職人が塩を作る過程で生まれる、貴重な副産物を使用している。特筆すべきは、そのテクスチャーの制御だ。にがりの量を極限まで減らし、ギリギリ固体として形を保つか保たないかの絶妙な温度帯を、1℃単位で管理して固めている。

蓋を開けた瞬間に目に飛び込んでくるのは、新緑を思わすうすい豆だ。丸々と炊き上げられた豆が美しく並ぶその餡を、木製の匙でそっとすくい上げると、下から純白でプルンとした、きめ細かな豆腐が現れる。
口に含んだ瞬間、体温でふわりと溶けていく食感は、まるで上質なフロマージュブランのよう。うすい豆の青みのある濃密な味わいが、豆腐のクリーミーさを一層際立たせる。
寿司店に着想を得た、白衣をまとった「鰯の軍艦天ぷら」

お造りやお椀、一品料理を経て、いよいよコースのハイライトである天ぷらが登場する。天ぷらの最大の特徴が、「白無垢」を思わせる淡く白い衣だ。通常、天ぷらの衣には卵水が使われるが、同店ではお米を食べて育った鶏の「米っ娘たまご」という、黄身が白い特別な卵を採用している。
揚げ油は、太白ごま油と米油を独自の比率でブレンドしたもの。米油だけではさっぱりしすぎてコクが足りず、かといって太白ごま油だけでは素材の繊細な香りを消してしまう。部谷氏が何度も試行錯誤を繰り返して辿り着いたこのブレンド油は、油切れが良く軽やかで、食後の胸焼けを感じさせない。

名刺代わりの一皿が「鰯の軍艦天ぷら」だ。脂ののった鰯の最もおいしい状態を表現するため、部谷氏が出した答えは、中心温度を40~43℃にすることだった。これは青魚の脂が最も甘く、じんわりと溶け出す絶妙な温度帯だ。
この極めて狭い温度帯を天ぷらで再現するために参考にしたのが、寿司店の「ガリ巻き」だ。鰯でふぐねぎを巻き、さらにそれを有明海苔と大葉で2重に包み込んでから衣をつけ、160℃前後の油で揚げ、余熱も意識しながら緻密な火入れを行う。

お皿の上に2つにカットされて登場した鰯の天ぷらは、魚の脂が表面にじんわりと溶け出て艷やかだ。口に運べば軽やかにほどける衣、パリッとした歯触りが残った海苔の後に、刺身のようにレアな舌触りの鰯から青魚らしいうまみがあふれ出す。大葉の清涼感が重なり、ふぐねぎのシャキシャキとした爽やかな香りのアクセントが脇を飾る。食材の火入れが完璧に計算された、完成度の高い一品だ。
締めたての稚鮎と、細かな手仕事が光るキスの天ぷら

「汽素火」では、可能な限り新鮮な状態で食材を仕入れているのも特徴だ。初夏の今時期は、天竜川の養殖鮎を生きたまま毎日仕入れ、揚げる直前に魚を締めた「稚鮎の天ぷら」がコースを飾る。衣は、小麦粉と卵水だけで極めて薄く、鮎独特の渋い魚体の色や、ウロコの質感が透けて見えるほどだ。まるで薄氷を纏ったかのような、繊細極まりない揚げ上がりはまさに職人技の一言に尽きる。

そして面白いのが、その味付けだ。皿の左手には淡路島の天日塩が振られ、右手は自家製の鮎の魚醤を、日本酒とともに霧吹きでスプレーしている。
塩味の稚鮎は、鮮度のよいサクッとした食感と、内臓の苦みが心地よい。魚醤がスプレーされた稚鮎は、熱によって芳醇な香りが立ちのぼり、凝縮されたうまみが優しく押し寄せる。

天ぷらの王道である「鱚(きす)」は、下味をつけるのではなく、軽い塩水で洗うことで水分を適度に抜き、身を品良く締め上げている。さらに、鱚特有のふっくらとした質感を強調するため、卵水をあえて少しホイップさせて空気を含ませ、粉の量を多めにして、衣自体にボリュームを持たせ、ふっくらと仕上げている。食材それぞれの良さを最も美しい形で引き出すための、引き算の美学が、天ぷらの妙技から感じ取れるはずだ。
軍鶏の塩だしですする「丸抜き×ひきぐるみ」の十割そば

新潟県の天然軟水で手打ちする「十割蕎麦」も出色だ。訪れた際のそば粉は、茨城県産の「常陸秋そば」。特筆すべきは、香りが際立つ外皮ごとひいた「ひきぐるみ」と、甘みとうまみが強い中心部のみの「丸抜き」という、ひき方の異なる2種類の粉を独自にブレンドしている点だ。また、十割でありながらボソつきがなく、しっとりとした細打ちに仕上げるため、最初の「水回し」には通常の倍以上の時間をかけ、日々の湿度や気温によって加水率を細かく調整する。

さらに独創的なのが、合わせる「つけだし」だ。そばの繊細な風味を損なわないよう、醤油ベースではなく、福島県産の「川俣シャモ」のガラを使った「塩だし」を引いている。 沸騰させずに静かに約2時間、うまみだけを抽出したスープは、透明で上品な清湯に仕上がっている。これに淡路島の天日塩を合わせることで、そばが持つよもぎのような甘みを極限まで引き出す。
プレミアムな美酒が引き立てる、緻密な技法と引き算の美学

料理に合わせるドリンクは、柴田氏が選定している。日本酒は奈良の「みむろ杉」、茨城の「森嶋」など、約50種類におよぶ。また、天ぷらとの相性を考え、酸とミネラルが豊かなワインも豊富に揃う。
素材そのものの質に甘んじることなく、管理、処理、火入れ、切り付け、盛り付けの全工程において、素材を最大限に活かす引き算の美学が光る「汽水域」。伝統的な日本料理の枠組みを大切にしながらも、科学的・論理的なアプローチもかけ合わせ、未だかつてない洗練された味覚の世界を形作っている。この奇跡的な「汽水域」に一度、身を浸してみてはいかがだろうか。


