【あの映画のあの味が食べたい!】

意図せずに、映画はいろいろなことを教えてくれる。恋愛物語を見てたはずなのにモーニングコーヒーの淹れ方についてウンチクを覚えたり、カクテルシュリンプの間違ってるけどイカした食べ方を真似したり。

 

とある場面のそれがどんな味でそのときどんな存在であるのか。映画のストーリーから思い起こされる食の遍歴(ログ)。それもまたおいしい。

『バグダッド・カフェ』の魔法瓶のコーヒー

© 2008 KINOWELT INTERNATIONAL GmbH

気が遠のきそうなとき、すがりたくなるもの

つかつかと入ってきてカウンター席に座るような男が、とりあえずと言って頼むものは、だいたいビールかコーヒーのどちらかと相場は決まっている。

 

「俺の妻を見なかっただろうか? 太ったドイツ人だ。」と言いながら、突然の来訪者はビールを注文する。「ビールはない。酒を取り扱う免許がない。」

 

だったら、コーヒーを。カフェって看板を出してるドライブインだ、当然、コーヒーはあるに決まってる。しかし、どうだ。コーヒーもないという。今頃はラスヴェガスに着いて、オアシスで足を伸ばしているはずだった。現実は、アルコールの取り扱い免許がない、しかもコーヒーマシーンが壊れてしまっているカフェにいる。妻はいなくなってしまうし、風景も喉も渇き過ぎていて一体どこなのかもわからない……。

これは映画のほぼイントロ部分にしか関わってこないジャスミンの夫の心象風景。パーシー・アドロン監督が描くこのドイツ男の顛末を、私自身に置き換えてみる。だいぶパニックになっているだろうと思う。異国の地で妻もしくは同伴者と喧嘩別れした時点で、けっこうつらい。このシーンのように風があって砂が舞うのに、音がなくてとても静かなのもダメージが大きい。相手がどこにいってしまったのかもわからず、携帯電話も繋がらず連絡の取りようがない。心配と不安と面倒さ。いろいろなものが心に絡み合っていく。気が遠のく寸前のところで、とにかく落ち着こうとするだろう。

 

そんなときに必要なのはいつものルーティーンだ。普段から吸っている煙草をくゆらすとか、自分のテーマ曲にしている音楽を聴くとか、ビールを飲むとか、それは人それぞれだが、私は、テーブルに腰を落ち着かせてコーヒーを飲みたいと願う。味や見てくれはなんだっていい。乱暴に言ってしまえば、カフェやダイナーで淹れてくれるコーヒーにとてつもないハズレはない(はずだ)。

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黄色い魔法瓶のコーヒーの正体は……

劇中、コーヒーマシーンが壊れてしまっていてコーヒーが飲めないジャスミンの夫の心情はいかほどか。あきらめたそのときに、黄色い魔法瓶から注がれたコーヒー。うまいコーヒーだと礼を言うドイツ男だったが、その魔法瓶が自分たちのものだったことに気づいていない。喧嘩してジャスミンという妻と魔法瓶を置き去りにした夫に差し出されたコーヒー。魔法瓶を拾ってきてブレンダという妻にドヤされ家出することになる夫が差し出したコーヒー。寂れたモーテルのカフェの店内で、妻とうまくいかない男たちがコーヒーを介して2、3の会話を交わす。

 

私はこのシーンとそんなコーヒーが好きだ。状況が好転したわけでもないのに、コーヒーを口にして引きつっていた顔がほころぶ。1杯のコーヒーは、止まるはずのない人生の時間を一瞬だけ止めてくれた。結局、また取り返しがつかないように時間は進んでいってしまうだけなのだが、コーヒーにはそんな効能があったりする。

 

バーテンダーが代金はいらないと言うと、「そうか。いい店だ」と呟いて男は出て行った。風が吹く。魔法瓶のコーヒーの味を想像する。おそらく、ヨーロッパ人(この夫婦)が好んだ濃いエスプレッソだったに違いない。客の目線や心情を感じながらも、それを受け流してコーヒーのうまみを抽出する。劇中のバーテンダーのようなクールさで、だけどとてもおいしいおもてなしをしてくれるコーヒー店が渋谷にある「茶亭 羽當」だ。ここのカウンター席に座れば、心静かに映画の1シーンを思い浮かべながらコーヒーを味わうことができる。

出典:kamahideさん

 

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■作品紹介

寂れたカフェ&モーテル、“BAGDAD CAFE”。登場するのは、どこかが欠落してて何かがありあまっている人びと。きっとそれには失われゆく人生の時間も含まれる。ジェヴェッタ・スティールの主題歌『コーリング・ユー』に同調するようなセピアがかった青い世界に突如現れたジャスミンと、この場所でひとりだけ早回しの時計の中で生きていたようなブレンダ。次第にそれがひとつの物語となって交わっていく……。

『バグダッド・カフェ ニュー・ディレクターズ・カット版』

Blu-ray発売中 発売元:IMAGICA TV ※発売情報は記事掲載日当時のものです