【森脇慶子のココに注目 第42回】「飄香」(ピャオシャン)
「中國菜 老四川 飄香」という名の四川料理の名店が代々木上原に産声を上げたのは今から17年前。2005年4月のことだ。オーナーシェフ井桁良樹氏は当時34歳。千葉の調理師学校を卒業後「知味斎」等で修業。その間、数々の料理書を読みこむうち、本場中国への憧憬の念を抑えきれず、29歳で単身渡中。上海、四川で2年間研鑽を積み、帰国。その後、満を持しての独立だった。
餃子や回鍋肉といった日本人におなじみの中華料理ではなく、四川や上海のちょっぴりマニアックな料理が並ぶこの店は、すぐにチャイニーズラバーの目に留まり、一躍有名店に。銀座三越に出店後、2012年には麻布十番に移転した井桁シェフ、程なく伝統四川料理の流れを汲む成都の老舗「松雲澤」を中心とする「松雲門派」に弟子入りを果たす。そうした中、2018年には六本木ヒルズに伝統四川料理を気軽に楽しめる「老四川 飄香小院」をオープンする一方で、麻布十番店では、四川の古典料理を提唱してきた。
その井桁シェフの店が、2022年7月4日広尾に移転。リニューアルオープンを果たした。店名も“老四川”を外し「飄香」のみに。そこには「飄香」ならではのここでしかない四川料理に挑もうとする井桁シェフの気概がある。「この店では、四川伝統の調理法を基軸に置きつつ、日本の風土に根付いた食材の持ち味をいかに引き出すかなど、これまで培ってきた経験と技術、薬膳の知識などのすべてを駆使、昇華させた唯一無二の料理を提供していきたいと思っています」と静かに語る井桁シェフ。
いわば、30年余に亘る料理人人生の集大成と言ってもいいだろう。ここで腕を振るうは、井桁シェフただ一人。料理も「おまかせコース」26,620円一本に絞り、18時30分からの一斉始まりに切り替えるなどオープンキッチンのシックな店内は、店全体、16席すべてがまさにシェフズテーブルといった趣だ。
コースでは、アミューズ2品からデザート2品までを含む全14品が登場する。いずれの料理も、四川伝統の味を大切にしつつ、井桁シェフの創意工夫が光るものばかり。例えば「竹韻」とネーミングされたアミューズ。フォアグラのテリーヌを南乳(腐乳)でマリネし、自家製のらっきょうのピクルスや唐辛子ジャム、自家製甜麺醬を竹炭パウダー入りのパイにのせたものだ。もともと麻布十番店では、春巻の形で出していたそうで、ここでは更に進化。フォアグラを用いつつも、着地点は四川の味わいとなっている。
一方、中国の弦楽器・琵琶に見立てた前菜は、四川を代表する漬物・泡菜の汁を活用。実は、この料理が生まれた背景には一つのストーリーがある。四川の高名な書家が「世界で一番好きな食べものは、泡菜の汁だ」と語った話を聞いた井桁シェフが、なんとか泡菜の汁をメインにした料理が作れないかと考え、結実した佳品。
泡菜の汁でマヨネーズを作り、同じく泡菜の汁でマリネした牡丹海老をフレンチのショーフロアよろしく覆ってある。
フレンチを思わせる一品と言えば「貴妃」も然り。なんと、スープに紹興酒ならぬオレンジワインをたっぷり使い、黒鮑と冬瓜を煮込んでいるのだ。が、決して奇を衒ったわけではない。“貴妃”とは楊貴妃のことで、井桁シェフ曰く「楊貴妃は、ワインを好んで飲んでいたそうで、そのワインは、おそらくワイン発祥の地と言われているジョージア(グルジア地方)のワインだったと思うんです」。
このジョージアワインで特徴的なのが、“クヴェヴリ”による伝統的醸造法。通常の白ワインとは異なり、赤ワインと同じように果皮や種共に発酵させるそうで、今で言うオレンジワインがそれ。一見、創作的に見えるが、そこには中国の歴史的背景や料理をしっかり会得した井桁シェフならではの浪漫がある。そして、基軸はしっかり四川の味。しかも、かなり手が込んでいる。
まず、黒鮑は、老鶏、鴨腿肉に皮付き豚すね肉、干し牡蠣、干しスルメ、干し椎茸、干し貝柱、金華ハムにふかひれの軟骨を5時間炊いてとったスープで煮込み、一方冬瓜は、鶏と干し貝柱を合わせてとったスープで煮るというように、それぞれ別々のスープを作って仕込んでいるのだ。
最後に、これらを合わせて煮詰めたオレンジワインを加え、更に煮込んでようやく完成となる。楊貴妃の名前「玉環」にちなみ、冬瓜で翡翠の腕輪をイメージした輪を作り、盛り付けている。深みのあるスープはそれだけでも美味。鮑の旨味と重なることで、より格調高い味わいを醸し出している。
また「松雲」と名付けた一品は、井桁シェフ自身が感動し、松雲門派に入門するきっかけとなった四川の伝統料理“肝油海参”を、井桁流に深化させた一品だ。従来の“肝油海参”は、先の“貴妃”と同じく濃厚なスープで豚レバーを煮込み、更にナマコを煮るわけだが、井桁シェフは「コースの温前菜としての立ち位置なので、少し軽やかな味にしたかった」とアレンジ。豚肉と干しムール貝だけを煮詰めたシンプルな旨味のスープをベースに、鶏のトサカの形をした鶏冠油と呼ばれる脂でコクをプラス。重くなりがちな豚レバーの代わりに、おおいた冠地どりのムースと白レバーを柔らかく煮た豚すね肉で巻き、ナマコと合わせている。
藍の器に品良く盛り付けられたそれは、濃厚ながらも後口はたおやか。ナマコのプルンとした食感を白レバーが優しく受け止める。ちなみに豚肉とムール貝の取り合わせは、決して奇を衒っているわけではなく、清代の料理書「随園食単」にも掲載されているそうだ。
四川料理を様々な角度からアプローチ、独自の世界観で新たな四川の味を生み出す井桁シェフ。その根底には、1年間の成都での修業で身に付けた「百菜百味」の料理のメカニズムを習得し、四川の技法を体系的にマスターすればこその井桁シェフの力量がある。新たな四川の可能性に期待したい。
※価格は税・サービス料込