【第一回】 亀戸『美津田』の巻

 

師匠、ご指南お願いします

左手で目には見えない碗を持ち、右手には箸に見立てた扇子一本。かくしてズズズと音を立て、不可視の蕎麦を、さもそこにあるかのごとく「たぐって」みせるのは、落語における見せ場のひとつだ。『時そば』『そば清』『そばの殿様』。このように、演目に蕎麦の名がつく例もあり、落語と蕎麦とは切っても切れない間柄。となれば落語家の皆さんは、やはり蕎麦には詳しいだろう。そんな勝手な推測で、美味しい蕎麦屋を教えてもらおうと考えたのが、この企画。

 

指南役をお願いしたのは、あまたの蕎麦屋を食べ歩き、それを本にもされている三遊亭圓龍さん。昭和の名人と謳われた六代目三遊亭圓生に入門して以来、半世紀あまりの間、落語の世界に身を置いてきた大ベテランだ。そんな経歴の一方で、その人柄はいたって気さく。着物姿で待ち合わせ場所にいらした途端、「着物、着慣れなくてねぇ」と飄々とおっしゃる圓龍師匠に、まずはなぜ落語には蕎麦にまつわる噺が多いのか、うかがった。

 

三遊亭圓龍(さんゆうてい・えんりゅう) 1939年山梨県生まれ。65年、証券会社勤務を経て六代目三遊亭圓生に入門、旭生を名乗る。81年、真打に昇進し、圓龍を襲名。著書に『円龍のそば行脚 落語家が選んだ東京23区内のそば屋308』(日貿出版社)、『円龍の下町人情味処』(山と渓谷社)、『二八人二八演』(バジリコ)など。

落語に蕎麦が度々登場するわけは?

「理由としては、蕎麦が江戸時代から気軽に食べられる、身近なものだったということがあるでしょうね。今でも寿司より安いしね。高級なものは、そうそう食べられないでしょう? 蕎麦なら一日働けば、誰でも何杯かは食べられる値段でしたから。そして江戸では、うどんより蕎麦の方がよく食べられていましたし。蕎麦屋でも、江戸時代は店を構えていない、いわゆる屋台が多かったんです。『えぇ〜、蕎麦ぁ〜』なんて言いながら、屋台を担いで歩くわけです」

 

江戸時代に関する資料をひもとくと、蕎麦の屋台は多くの場合、天秤棒の前後に荷箱を固定して、その上に屋根を架け渡した作りだったという。

 

「それを肩に担いで、いい場所で降ろして商いをするわけです。そして終われば、また担いで帰宅する。当時、きちんとした店を構えて商いをできるのは、よっぽどお金に余裕のあった人なんです。そうした店で火を扱う商売をする場合、特に火事に注意する必要がありました。江戸時代は、周囲の建物を壊して延焼を防ぐのが消火の方法でしたから。そうなると、営業許可も簡単には下りなかったんじゃないかと思います。でも屋台なら、許可も下りやすかったんでしょうね。なぜなら火事になっても、その屋台がひとつだけ燃えれば済むんですから(笑)」

 

財布にやさしい、江戸の蕎麦

庶民がさほど懐具合を気にせずに食べられて、落語にも多く登場することになった江戸の蕎麦。ところで師匠、その値段はいかほどだったのでしょう?

 

「江戸時代を通じると、8~32文程度で推移があったようですね。中でも16文の時代が長かった。これが二八蕎麦の由来という説もあります。つまり2×8=16(文)という洒落ですね。一方で、蕎麦粉が8割、つなぎの小麦粉が2割だから二八蕎麦という説が有力だとも言われます。今、二八蕎麦と言ったらもちろん後者ですけどね」

 

ちなみに、かけ蕎麦が一杯16文だった文化・文政期(1804〜30年)、握り寿司は一貫がおよそ8文、スイカは一個で38文、酒一升は250文したという。寿司二貫と等価と思えば、屋台の蕎麦はコストパフォーマンスの面でも優れていたと言えそうだ。

 

「大体、食べものを評価する時は、値段と味と量を基準にするでしょう? その3つの釣り合いが取れていると、いいですよね。今の蕎麦屋でも、そういうのがいい店だと思いますよ」

 

さて、今回のおすすめは?

では、師匠。早速、今回のいい蕎麦屋、教えてください。そう聞くと圓龍師匠、「まぁ、立ち食い蕎麦屋の『◯◯◯◯』なんかも」と一旦はぐらかしてから、亀戸の『美津田』を教えてくれた。

 

 

「ここはうちの近所でしてね。スーパーへ買い物に来たついでに寄るんです」

 

亀戸で店を開いて40余年の、この『美津田』。石臼を導入し、手打ちを始めたのが、今から17年前だという。父である初代が亡くなり、二代目の息子さんが元々していた蕎麦打ちのほか、蕎麦切り、つゆの味まで手がけるようになってから、今年で3年。

 

 

「ようやく、ばらつきがなくなってきた」と、辛口のコメントをするのは、ともに店を切り盛りするお母さんだ。もっとも蕎麦つゆの方は辛口ではなく、追いがつおの風味も豊かな中濃だ。訪れた日の蕎麦は茨城県産・常陸の秋蕎麦。そしてお代はせいろが600円と、良心的だ。

せいろそば600円(写真上)、野菜天ざるそば1,000円(写真下)

 

「なかなかいい蕎麦ですよ」

 

師匠はそう言いながら、出された二八のせいろをすぐに完食。蕎麦の粋な食べ方についてうかがうのは、次回の課題といたしましょう。

 

撮影 : 浅井 広美

 

<著者プロフィール>

瀬尾 英男

編集者・ライター。1971年生まれ。
「エスクァイア日本版」など複数の雑誌編集部を経て、フリーランス。著書に『ボタニカ問答帖』(京阪神エルマガジン社)。