日本人のためのフレンチ「シンシア」(千駄ヶ谷)

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本当に惜しまれつつ閉店してしまった松濤の「バカール」。そのメインシェフだった石井真介シェフの料理欠乏症になってから1年、やっとその日がやってきた。みんなどれほど待ち焦がれていたのだろう。オープン前に受け付けた予約は一瞬にして埋まり、オープン時にはすでに3カ月待ち。プラチナチケットと化していた。

 

レセプションの告知もすごい反響だったので急遽1日増やしたほどだそう。取材もすぐには対応できないようで、いったいいつになったらシェフの料理欠乏症が解消されるのかと途方に暮れていたら……、持つべきものは友達だ。

 

なんと「予約を取っているのでご一緒にどうぞ。」と誘ってもらえたのだ。何かが起こってはなるまいと、その日は一切予定を入れずに万全を期した。

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「バカール」への想いを継承しながらも新たなる扉を開けた石井シェフの料理には、懐かしさもあり、未知との出逢いもある。

 

期待はもちろんしていたが、予想をはるかに上回る約3時間半のディナーだった。

 

1年の休養によってこの料理ができたのなら良いことだったかも、なんてシェフの苦労も顧みず能天気なことを考えてしまった私。ともあれ、アミューズからミニャルディーズまで、空腹が口福に変わった12品を堪能させていただいた。

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コースを終えてみて、なんとなくだが、メニュー構成について感じたことがあった。

 

古巣の踏襲である“バカールメニュー”では待ち続けてくれていた客に感謝を込めて思い出を共有する、そして休養期間のさまざまな経験によって生まれた“シンシアメニュー”でこれからのシェフの世界観をお披露目。

 

ということは、いまが新しい世界へ向かってのスタート地点なのではないか。

 

なので今回は、もしかすると“思い出の宝箱”にしまわれてしまうかもしれない“バカールメニュー”から、「この店のこの逸品」を選ぶことにした。

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伺った日に出された“バカールメニュー”には、これで名を馳せたとも言えるシグネチャー「バーニャカウダ 蟹みそのソース」、店名が刻印された「四角いブリオッシュ」、そしてオープンからずっとトップバッターの「進化した5つの味のトマト」が登場した。

 

本当にどれも素晴らしかったが、ものすごく衝撃を受けたのがこのトマトだった。

 

このちっちゃなトマトのなかに酸味=トマト、甘味=キャラメリゼ、苦味=ローズマリー、辛味=胡椒、塩味=塩が感じられるなんて誰が信じられるだろうか? それをやってのけてしまうのが石井シェフなのだ。

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「コースの最初に出すことで味覚を覚醒させます。」と話すシェフ。

 

バットに塩と胡椒をばらまいてキャラメリゼしたトマトを載せると塩胡椒が付く。ローズマリーを刺せば完成。

 

口に入れてキャラメリゼがパリパリッと壊れた途端、まずはパンッと酸味、続いて瞬間的に甘味、ふわっとローズマリーの苦味が香り、辛味と塩味が同時に味をまとめる。そんないろんな味覚が時間差で感じられる。

 

開発秘話としては、パリの修業先でシェフがトマトをキャラメリゼしてデザートにしていたのがヒントになったそう。

 

「トマトを甘く食べるって面白いなと思って、もっといろいろな味を増やしたらどうだろうと作りました。胡椒とローズマリーみたいな強い香り同士を一緒にすること自体あまりしないので自分でも楽しかった。」と話す。

 

どこにでもある食材を料理人の腕によって完成度の高いひと皿に昇華させるのが石井シェフのすごいところだと思う。それにしてもこんなに印象深いトマトは生まれて初めてだ。

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純粋に味覚に訴えかけてくる。いろんな香りが合わさって最後にまとまるのがフレンチらしい。

 

和食がそれぞれの美味しさを各々の滋味深さで表現しているならば、フレンチは合わせることで感動を与えているのかもしれない。

 

例えば、日本人は鰤や鮪は醤油で食べるのが一番美味しいと思っている。そこにはどうしても及ばないのだとしたら勝てないながらにフレンチとして何ができるのかを考えてできたのが「シンシア」で出した“鰤とセロリとカレー”だ。

 

カレーを合わせることで醤油とは違うインパクトで食べられる。

 

和食では絶対にやらないことをする。

 

それが“石井フレンチ”なのだ。

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実は「バカール」では、シェフと話すことはほとんどなかった。カウンターに座ったときに料理の説明をしてもらうくらいで、話すのはもっぱらソムリエの金山さん。シェフはいつも黙々と料理を作っていた。

 

ところが「シンシア」では自ら席に来て想いを伝えてくれる。

 

「僕が一番大事にしている“押し付けるのではなく食事を楽しんでもらう気持ち”は以前と変わらず、これからも変えるつもりはないです」

 

「バカール」ではシェフひとりしかいなかったこともあり、お客様と話したくても話す余裕がなかったそう。

 

「本当は、もっとお客様との距離感を大切にしたいと思っていたので、今はスタッフに任せられることは任せて自分はお客様のところに行きたいと思っています。」と言う。

 

シェフが生き生きとして見えた。

 

そして、シェフはこう続けた。

 

「大変だが、ものすごく楽しい!」と。

 

まだまだ改善しなければいけないところはあるが、少しずつ良くなっているそうだ。

 

まだまだって……。

 

かなりハイレベルの素晴らしい店だと思うが理想はどこまでも高い。

 

今は、半分が「バカール」からのお客様だ。何を変えるべきか、何を残すべきか、それを踏まえて「シンシア」はどうあるべきなのかを、客目線で考え、変えているそうだ。

 

「バカール」と同じことをやっても意味がない。だが、自分自身の料理であるが故に、本質は変わらない。

 

過去の自分といまの自分を比較するのではなく、6年半やり続けてきた自負にする。

 

だからこそ、これからは“「シンシア」の石井”を表現できるように、過去のことは少しずつなくしていこうと決意した。すると、形が見えてきた。

 

もうすぐ1周年。ここに来て、ようやく未来が見えてきたからこそ、一層のやりがいや楽しさを感じているのだと。

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そんな将来のビジョンの中に、人材育成も入っているそうだ。

 

ひとりでも多くの人が「シンシア」で働きたいと言ってもらえるような店作りをしていると言う。実際、それぞれ担当はあるが、お互いに助け合っているのが見ていてよくわかる。

 

ホールが忙しければ、シェフだって料理を運ぶしワインだって注いでくれる。

 

すべてが見えるオープンキッチン、シェフ自身がこの厨房は「楽しい!」と言うだけあって見ているこちらにも、その陽気で明るい空気は伝わる。

 

どんな業界だったとしても働いていて楽しいと思える場所はそう多くない。やりがいを見いだし、仲間とともに何かを作り上げることができたらそれは人生において、きっと財産になるに違いない。

 

「シンシア」はそんな店であり続けるに違いない。

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信じられない話だが、オープンしてからネットの投稿や他人からの意見を聞いて、一時はどうしたらいいのかと悩んだそうだ。

 

それらを真摯に受け止め、やっと基盤ができたので、今年はさらに上を目指し、新しいことをスタートさせたいと話す石井シェフ。

 

いったいどんなことをするのか? と聞くと、「フランス料理らしいものを日本発の日本の文化として根付かせたい。」と話してくれた。

 

それが何なのかはまだ秘密だそう。ただ、いま携わっている“いただきますプロジェクト”のように、食ができる何か、食の未来に関することなのだと言う。

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そう言われると思い出すのは「バカール」の通販。

バーニャカウダを頼んだときに、手書き印刷でそれぞれの野菜の特徴や保存方法や食べごろが詳しく書かれてあった。

 

蟹みそソースが余ったときの利用法も。

 

それを商品とともに受け取ったときに、レストランの通販がここまでするものなのかと驚き、また頼もうと思ったのだ。それを伝えたところ、通販は顔が見えないからお金と商品のやり取りで終わってしまう。

 

それだけはしたくなかったので自分にできることをしたまでだ、と答えた。そこにシェフの想いがある。お店に来ることができない人たちにとって、とても嬉しい心配りだったと思う。

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そもそもシェフは「フレンチなんて。」という人たちにこそ、フランス料理の美味しさや楽しさを知ってもらいたいと思っているので、もっと“日本人のためのフレンチ”という視点で発信していきたいと言う。

 

「フレンチはお金持ちのための世界」という印象を変えたい。

 

だからこそ、プロだけに評価されるのではなく、すべてのお客様に評価していただける料理を作っていく。これが何よりの幸せなのだと。

 

常に満席、3カ月先まで予約が取れないのは、その心意気が十分伝わっている証拠ではないだろうか。

本日のお品書き

シンシアコース/9,600円

*北海道産 殻つきホタテ貝のムニエル

*進化した5つの味のトマト

*カリフラワーとウニの冷製

*バーニャカウダの蟹みそソース

*車海老と金目鯛の炙り

*宮崎牛のロースト

*季節のヨモギと日向夏

メインデセール、他

※なお、季節ごとにメニュー内容は変わります