僕はこんな店で食べてきた

今、振り返る、東京の寿司

思い出の寿司職人が握る銀座の寿司店

ここ数年、銀座で寿司を食べるとふたりで8万円は覚悟しなくてはならなくなった。寿司は安くはないとは感じていたけれど、せめてふたりで片手で収まらないとおいそれとはいけないなあと思っていたら、フェイスブックのタイムラインに銀座の寿司屋の広告が流れてきた。
新潟で回転寿司を成功させた「鮨 弁慶」グループが銀座に高級寿司店「鮨弁慶 海」を開店したと書いてある。もちろん回らないが、夜のコースは1万円から。

 

へー、安いじゃないか。でも単に値段が安いだけじゃあ、食指が動かないなあと思ったら、脇に「六本木の山海で腕を振るった江戸前の寿司職人が握る」と書かれているのにビビッと反応してしまった。たしかに写真の主は山海の大将だった山崎正夫さんだ。

鮨弁慶 海 銀座店 写真:お店から

「山海」は僕的に、1990年代後半から2000年代前半までで一番通った寿司屋かもしれない。場所は六本木の芋洗い坂の途中あたり。ちいさいビルの2階にあった。

 

すでに世の中はバブルを経験し、寿司の楽しみ方もこれまでの「刺身をちょっと切ってもらい、3貫、4貫つまんで1時間ほどで帰るのが粋」という時代から「趣向を凝らしたおつまみで酒を飲み、最後に数貫握ってもらう」という方向へ舵を切った頃だ。「おまかせ」がはやり始めたのもこの頃だろう。客にしてみれば魚の名前や旬の時期を知らなくても勝手に出してくれるし、店もロスが少なくなるから、互いにとってメリットのあるシステムとして一気に広まった。

いや、正確にいうなら80年代の一時期、寿司の世界では「酒は頼まずにお茶。つまみなしで握りは白身から」という作法を通すグルメたちがいた。

 

「寿司屋は酒を頼んでつまみでだらだら過ごす小料理屋ではない」と唱える高名な評論家がいて、その薫陶を受けた若い人たちがカウンターに座り、お茶だけで寿司を食べていたのだ。いまでいえば「酒なし(あってもビール一本程度)、つまみなし、握り一本勝負」の「すきやばし次郎」の雰囲気を想像すれば、そのストイックさがわかると思う(ただ当時の次郎はいまと違って鷹揚で、僕を最初に連れて行ってくれた常連はさんざん酒を飲んで、最後に数貫握ってもらって帰るのが通常だった)。

「おまかせ」の寿司店の登場

もっとも僕はすでに酒毒が全身に回っていたから、そんなストイックなことはできず、以前書いた食の師匠「H氏」に下北沢「小笹寿し」に連れて行ってもらったのが、意識的な寿司修業の最初だった。

小笹寿し 出典:辣油は飲み物さん

当時の小笹寿しは岡田周蔵という名人と呼ばれた職人が仕切っていて、扉を開けるとすぐに緊張した空気が流れていた。
空いているカウンターに座ろうとしたらH氏に「まずは小上がりで待つんだよ」と諭され、岡田さんに「カウンターの用意が出来ました」といわれるまで待つことを教えられた。
座ってからも「季節のものをちょっと切っていただけますか」から始まり、握りに移ると旬の魚のやりとりをしながら2貫握ってもらっても1貫でもかまわないというのが、この店の流儀だった。

 

そうした当時の寿司屋の雰囲気を描写している名著が『江戸前にぎりこだわり日記』(川路明著 1993年刊)だ。
寿司好きな素人が都内の有名店を取材と名乗らずにまわって、その店の描写をしつつ、寿司職人の修業の系譜を辿った内容で、その詳細さで寿司通たちを驚嘆させた本だった。特に銀座の名店「きよ田」の生みの親である藤本繁蔵という職人についての描写が細かく、僕も当時、この本を片手に寿司屋めぐりをしたものだ。

 

話がずいぶん遠回りしたが、そうしたクラシックな寿司屋が少数派となり、おまかせ中心のわかりやすい寿司屋が増えたのが1990年代以降で、「山海」もその系譜の「おまかせ」の店だった。

おまかせの店は高価なところが多かったが、山海が面白かったのは、いたずらに高級路線に転じず、インドマグロを美味しく食べさせる工夫をさまざま行ったことだ。
たとえばさっと火を通した大トロをにんにく醤油に1日漬け込んでエシャロットやルッコラ、ミモレットとともにサラダ仕立てにしたり、握ったり。巻物は表面を胡麻油で焼いて香りを出したりと、当時としては画期的な寿司を出していた。

 

その一方で、オーソドックスな握りは細長い硬めの酢飯が特徴で、江戸前を地で行く。その対比が鮮やかで、有名人も数多く訪れる寿司屋だった。
当時の山崎さんは40代前半だったんだろう。最初は本郷に自分の店を出し、六本木に殴りこみをかけた新進気鋭の寿司職人だった。いまでこそ20代、30代での独立が当たり前になっているが、山崎さんは当時ではかなり早い独立だったと思う。

“若くして独立”の先駆者

たぶん今の流れの、若くして独立する先鞭をつけたのは銀座「 青木」の大将、青木利勝さんだろう。青木さんの場合は正確に言えば独立とは違い、銀座に店を出したお父さんが1年で亡くなり、若くして店を継がなくてはならなくなったのだが。当時、同じ業界の大先輩から「まだオヤジの握りには程遠いけど、お前も応援してやってくれよ」と頼まれ、ほぼ同年代ということもあって、初期の頃はずいぶん訪れたものだ。

銀座 鮨青木 銀座本店 写真:お店から

口の悪い、だが心根の優しい常連たちからの応援で青木は銀座でも屈指の寿司屋に成長したが、その苦労はきっと並々ならぬものがあったのだろう。自分の苦労を糧として寿司屋の若手を指導し、面倒をみている彼の風景を僕は何度も見てきた。若手も青木さんの成功を見て、早い独立を夢見るようになった。しかもバブル崩壊後の賃貸市場の低下、融資の緩和などが相まって寿司業界は若手の独立が多くなったのだろうと思う。

 

2000年代初期の例でいえば、上野毛から銀座に移転し、いまはロンドンに店を構える「あら輝」。寿司修業のあとにトラック運転手となって資金を貯めて中野で独立、銀座に移転した「さわ田」。大ぶりの握りのお好みという古典的なスタイルを踏襲する新橋「しみづ」。西麻布に続々と出来た「鮨 真」「拓」「野じま」(後に銀座に移転)など。

 

そして、彼らの背中を見て育ち、リーマンショックというもうひとつの大きな事件のあとの不動産市況を好機として捉えてこの数年は、さらに若い20代の独立が増えてきたのは、皆さんもご存じのところだろう。

 

食の世界の中でも、寿司業界ほど活性化しているジャンルはないと思う。そんな中、山海の山崎さんの復活を知った僕は、広告を見て、ひさしぶりに会いに行った。予約もせず訪れたが、店はエレベーターを降りるとそのまま入れるスタイル。奥から出てきた職人さんは、まさしく山崎さんだった。彼もこっちをみつめてしばし無言。「久しぶりですね」という言葉から始まり、六本木の閉店から銀座に至るまでの話を聞いた。簡単に言えば、いくら腕があっても、時代の波には抗えないということだろう。

 

ただ、腕さえあればどんな年になってもまた第一線に戻れることも食の世界の素晴らしいところだ。山崎さんの握りを食べながら、僕はそんなことを思っていた。

 

★今回の話に登場した店