いな舟

choji1105
外観   出典:choji1105さん

「いな舟」は鶴岡駅から離れた場所にひっそりと佇んでいた。
最初に来たのは10年前の11月だった。

おかみさん

「さぶぅ」と言いながらコートの襟を立て店に入ると「いらっしゃいませ」と、カウンターに一人立つおかみさんに声をかけられた。
「熱燗1本ください」。早急に体を芯から温めなくてはいけない。
するとおかみさんが聞いてきた。
「お客さん、納豆嫌いじゃないです?」
「好きです」
「よがったあ。昨日から寒ぐて寒ぐて、あー今夜は納豆汁だあって思って作ったんで食べてください」

納豆汁

豆腐と芋の茎、潰した納豆による味噌汁が振る舞われた。
「納豆潰すんは、昔は子どもだちの仕事だったけど、今は子どもも忙しいだろ。ばっちゃんの仕事ですよ」
「ずずっ」。とろりと熱い汁が、体の隅々へと広がっていく。
「はあ~」。幸せのため息一つ。
椀から顔を上げると、おかみさんのうれしそうな顔が見えた。母の愛と民の知恵、地の恵みと人の心に満ちた汁だった。
この納豆汁から、この居酒屋にハマッてしまった。

帰り際に「今度、メガニ汁食べにきてね」と言われたので次の年の冬に裏を返した。

メガニ汁

大きな椀に、メガニが1杯鎮座している。
メガニとはズワイガニのメスのことで、庄内ではこう呼ぶ。
単純に、メガニを味噌汁の具にしたものだけど、そんなものにこそ極みのうまさが宿っている。カニの滋養が溶け込んだ熱々の味噌汁を飲みながら燗酒をやる。
体にゆっくりと幸せが満ちていった。

お品書き

春に訪れた時は、品書に「塩引鮭」を見つけて頼んでみた。
するとおかみさんが言う。
「いいんですか? 血圧上がりますよ。ふふふ」
「はい。承知です」と、胸を張って頼む。
やがて運んでくると「はい塩引鮭。しょ~っぱいですよ」と言って、置いていった。

塩引鮭

僕は久しぶりのしょ~っぱい鮭に敬意を評し、一番しょ~っぱい腹から食べ始めることにした。
一口。
ああ、しょ~っぱい。燗酒ではなく、いきなりご飯が恋しくなる。おそらくこの小さな切れ端だけで、ご飯1膳はいける。

ご飯が恋しくなるしょっぱさ

もう一口。
ああ、しょ~っぱい。塩分が精神に活を入れる。これはある種の良性マゾヒズムである。最近は、しょ~っぱい塩鮭がなくなった。活を入れ、味覚を諫めてくれる塩鮭がなくなった。塩によって鮭の凛々しさを、引き出さなくなった。
結局この1切れで、2合も飲んでしまった。

酒場のイチロー
日本酒   出典:酒場のイチローさん

一口食べて、その塩気にやられる快感に眉をひそめながら顔を上げると、おかみさんが僕の表情を見て微笑んでいた。

だから僕はこの居酒屋が好きなのだ。

文・写真:マッキー牧元