【森脇慶子のココに注目 第47回】「仁行」
今を去ること31年前。神田須田町は交通博物館の近くに一軒のそば屋がオープンした。このエリアといえば、神田「薮」、神田「まつや」の2大老舗が、頑然としてその名を轟かせる江戸そばのお膝元。そのすぐそばに、人知れず店を構えた小さなそば屋、それが神田「いし井」だった。そう、さすらいの名そば職人石井仁さんが初めて構えたそば屋である。この立地で店を構えた石井さんの大胆さに、当時のそば通らは驚いたものだが、当の本人は我関せず。「老舗の名店がそんなに近くにあるとは全く知らなかった」というから、そのマイペースぶりがうかがわれよう。それは、その後の石井さんの処世からもよく見て取れる。
石臼びき自家製粉のそば自体がまだ珍しかった当時は、十割そばを打つ店もまだ少なく、十割そばといえば、ゴツゴツとした太さの田舍そばというイメージが強かった時代、石井さんの打つ素麺の如く細くて喉越しの良いそばは、まさに稀有な存在だった。十割なのにこんな素麺のような細さで繋がるなんて!と、皆、目を丸くしたものだ。そして、その細さならではのたおやかな味わいに魅せられ、足繁く通うそば好きも多かった。何を隠そう私もその一人。神田時代から石井さんのそばを追いかけてきた。
というのも石井さん、それから店を移すこと6度。1回目は伊豆の修善寺の古民家に移転。神田の店では狭く、自家製粉するための電動石臼を置けないから、というのが移転の理由だったと記憶している。「朴念仁」の名で7年間、修善寺でそばを打つうちに東京が恋しくなった?石井さん、店を弟子に任せ、今度は東銀座に「古拙」をオープンする。2005年のことだ。ここでは、アラカルトだけでなくそば懐石も用意。もともとは、和食店で修業、そばは独学だった石井さんの本分が如何なく発揮されることに。その成果は、ミシュランの一つ星獲得という形ですぐに表れた。しかも「古拙」を知人に譲った後、2010年、日本橋で始めた「仁行」でも一つ星をゲット。そば界のレジェンドとでもいうべき立場となった石井さんだったが、これが終点ではなかった。
2016年群馬県富岡に移住。ユネスコ世界遺産に登録された富岡製糸場近くにあった実家を改装して「仁べえ」を開店。更にその3年後、今度は茨城県笠間に居を移し「仁べえ荘」の名でそば屋を営んできた。そして今年3月、7年ぶりに再度帰京。6月15日、日本橋時代の店名「仁行」の名で6度目の再出発を果たした。
場所は浅草観音裏。老舗から新規の名店までさまざまな料理店が点在する下町の美食スポットに店を構えた。といっても、そこは住宅街の中に埋もれるかのようにひっそり佇む普通の民家。それと知らなければ、まず、ここが飲食店と気づかないと思われるその外観を、よくよく見れば「仁行」と書かれた表札のような看板が玄関脇にかけられている。
旧友宅を訪れた気分で扉を開ければ、中は1LDK。キッチンに向けてカウンターが2席。おそらく居間だったと思われるスペースには4人掛けの食卓テーブルが1つと、定員はマックス6人。こぢんまりとした店内(というよりは室内?)は、雑然としてはいるものの、店らしからぬ雰囲気のせいか、不思議と寛いだ気分になってくる。
さて、できますものは8,800円(税込)からのそば懐石コースのみ。それも石井さんのワンオペとあれば無理からぬこと。しかし、そのそば懐石がいい。そば好きにとっては、誠に至福のコースとなっているのだ。石井さんが打つそばについては、多くを語らずとも既にご存じの方も多いことだろう。その幅1mmほどしかない極細のそばは、通称“水越そば”と呼ばれている。平均的なそばに比べ、加水率が多いことからきた命名で、石井さんの場合、なんと加水率65%余りでそばを打っている。通常、加水率40~50%程度というから、かなりの水分量であることがお分かりだろう。
石井さんによれば「喉越しの良さを追求していったら、自然と水が多くなっていったんですよね」とのこと。独学だからこその発想であり、打ち方といえよう。ある意味、自然体なそばといってもいいのかもしれない。
そう、石井さんにはそば屋での修業経験がない。前述した通りずっと和食畑を歩いてきた料理人だ。それゆえか、そばだけでなくだしにも人一倍気を使う。だしフェチといってもいいレベルであり、それがまた、石井さんのそば料理の特徴かもしれない。突き出しの旬の野菜を使った何気ないおひたしのだし加減、巣ごもりそばのあんのあんばいなどなどだしの味付けが実に絶妙。それも、そばや料理によってだしや味付けに使う醤油やみりんを変えるこだわりようだ。
例えば、もりのかえしは、濃口、薄口、再仕込みなど5種の醤油にみりん、和三盆、米酢少々を加えたもの。だが、これが冷かけのかえしになると、醤油は薄口と白醤油の2種になり、米酢とみりんのみで和三盆は入らない。更に、おろしそばのかえしは、薄口、濃口、白醤油の3種の醤油にみりん、米酢。かけ汁のかえしは薄口と白醤油にみりん、三温糖少々といったあんばいで、それぞれ微妙に配合が変わってくる。また、だしにしても、もりとおろしは、昆布と鰹枯れ節、宗田鰹と鯖節の厚削りでとるのに対し、冷かけは昆布と鰹の薄削りというように変える手間のかけようなのだ。
このかえしやもり汁は料理にも大活躍。例えば、揚げそばに具沢山の餡をかけた「巣籠もりそば」は、だしをベースにかけ汁のかえしを入れ、無添加のオイスターソースや8種類の醤油で味をつけているが「蕎麦サラダ」の胡麻ドレッシングにはもり汁のかえしを使用するなど、料理もそば同様その内容によってかえしを使いわけている。こうした味への細やかな配慮が、何気ないようでいて、しみじみと心に沁みる石井流のおいしさを創り上げている。
コースには、巣籠もりそばのほか、冷かけスタイルの「もずく蕎麦」や香り豊かな「蕎麦がき」「だし巻き卵」等々、全8品ほどが登場するが、中でもイチ押しは「蕎麦寿し」。
神田時代からの名物で、初めて口にした時の驚きは、今も脳裡にしっかり刻みこまれている。それまで食べてきたそば寿しは、伸びてネチョネチョした歯触りの悪い、(私にとっては)お世辞にもおいしい食べものとは思えなかった。が、石井さんのそれは、茹でたてのそばを巻くからだろうか、口にするや、はらりとそばが解け、あんばいよく味付けしたかんぴょうや卵焼き、シャキシャキしたきゅうりなどの具と口中で絡み合う。隠し味の山葵マヨネーズが、全体を見事にまとめる陰の繋ぎ役となっている。
コースの内容は、その時々で少しずつ変わる。〆の「もり蕎麦」のほか「おろし蕎麦」や「ぶっかけ」も美味。ちなみにそばは、現在、群馬県の農家から直送。赤城深山ファームの無農薬栽培のそばを使っている。すっきりとして品のいい味わいが特徴のそばだ。