【食を制す者、ビジネスを制す】
第14回 伝説の起業家が愛した鰻屋
本田宗一郎の無職時代
戦後ベンチャー企業の二大巨頭であるソニーとホンダ。とりわけ、ホンダの創業者である本田宗一郎は、ざっくばらんで陽気なキャラクターもあって、今も多くの人を惹きつけて止まない。だが、そんな本田も一直線に成功してきたわけではない。
本田は1906年生まれ。高等小学校卒業後、自動車修理工場のアート商会に丁稚奉公にあがった。21歳のときには、のれん分けのかたちで独立。故郷である浜松にアート商会の支店を開業した。浜松といえば、ほかにもスズキ、ヤマハなど自動車・二輪の産業が盛んな街だ。本田はその後、自動車修理だけに甘んじることなく、自動車部品を製造するために東海精機重工業を設立する。だが、自動車修理から部品製造に乗り出したものの、やはり自動車メーカーの下請けからは抜け出せない。
1945年、終戦の年に本田はトヨタに会社を売却して、これまで汗水流してつくり上げてきたものをあっさり投げ打ってしまう。
そのとき39歳。その後1年間、「人間休業」を宣言して、まったく仕事をせずに無職の時代を過ごすのである。会社を売却して得た資金があるから生活には困らなかったが、それでも本田のような仕事人間にとって仕事がないことほどつらいことはなかっただろう。
「人間休業」として人生をリセット
このとき本田はこれまでの半生を見返していたはずだ。39~40歳の時期といえば、人生の折り返し地点である。これまでの人生は決して順風満帆だったわけではない。やりたいことをやってきたが、なかなか成果が出ない。成功したように思っても、すぐに足もとをすくわれてしまう。「人間休業」と言ったのは、一度人生をリセットしたいという気分もあっただろう。遊んで暮らしてはいても、次に何をすればいいのか、考えざるを得ない。しかも敗戦で国内は混乱し、生きづらい時代だった。これからどうすればいいのか。本田にとってはこの無職の時代が大きな転換点となった。
1年間休養したあと、本田は本田技術研究所を設立する。所長ではあるが、小さな会社に過ぎない。またしても試行錯誤しながら後半の人生をスタートさせたのである。このとき妻が自転車で買い物に行く際に、エンジンをつけたら楽になるということを思いつき、二輪車の研究を始める。そして出来上がったのが通称「バタバタ」。これで事業再開のきっかけをつかむのである。
48年、42歳のときに浜松に本田技研工業を設立する。これが現在のホンダとなる。その後、東京にも進出し、二輪車のメーカーとしての地位を築いていくことになるのである。そして、四輪自動車への進出を宣言したのが、62年。56歳になってからだ。意外にも皆が知るような現在のホンダという大企業になったのは、それからさらに進んで本田が60代になってからだ。
本田が通った東長崎の「鰻家」
本田宗一郎は自宅で、庭に流れる小川に養殖の鮎を放流して、鮎釣りパーティーなどをよく催していたという。だが、それはパーティーに参加する出席者を楽しませるための趣向であり、本田自身は決して贅沢好きではなかった。
そんな本田が愛した店が、西武池袋線東長崎駅から歩いて5~6分のところにある「鰻家」だ。住宅地の商店街にあって、銀座や赤坂、日本橋のように会合で使えるような繁華街ではない。しかし、本田は、この店のうな重を気に入り1人で通うことが多かったという。
戦後の日本を代表する起業家が1人で商店街のうなぎ屋に通っていたことを想像すると何だか面白い。私も感じたことがあるが、名実ともに成功した経営者というものは強烈なオーラを体から放っている。只者ではない雰囲気をまとったおじさんが、1人で店に入ってきたときは店主もさぞ驚いたことだろう。それでも商店街のうなぎ屋で、1人で黙ってうな重を頬張っている姿は、本田にこそ、ふさわしい。権威などに頼らず、戦後の荒々しい時代を生き抜いてきた本田は、過飾を嫌い、質実を好んだ。
皆さんも一度、本田宗一郎が愛した味を味わってみてはいかがだろう。一口食べると、なんだか元気で陽気になれる気がしてくるはずだ。