高級志向→多様化へ。イタリアンはどのようにして日本に定着した?

2021年3月8日、「食べログ イタリアン TOKYO 百名店 2021」「食べログ イタリアン EAST 百名店 2021」「食べログ イタリアン WEST 百名店 2021」を発表した。もはや外食の定番たるイメージも強いイタリアンだが、日本に定着しはじめたのは意外にも今から三十数年前の話。そこで、日本におけるイタリアンの進化と代表的なお店について、百名店選出店をベースに、フードライターの森脇慶子さんに解説してもらった。

教えてくれる人

森脇慶子

「dancyu」や女性誌、グルメサイトなどで広く活躍するフードライター。感動の一皿との出合いを求めて、取材はもちろんプライベートでも食べ歩きを欠かさない。特に食指が動く料理はスープ。著書に「東京最高のレストラン(共著)」(ぴあ)、「行列レストランのまかないレシピ」(ぴあ)ほか。

【80年代前半〜中盤】高級料理の印象が強かったイタリアンが徐々にカジュアルに

高級リストランテから町場のパスタ屋まで、フランス料理を凌ぐ裾野の広がりを見せるイタリア料理。今や、すっかり日本の食生活に定着したと言っても過言ではない。とはいえ、それもここ三十数年程度のこと。

バブルが絶頂期を見せると共に頭角を現してきたイタリア料理だが、東京におけるイタリアンの大躍進は、既に1980年代に萌芽を見せ、80年代後半に入ってから次第に上り調子になっていったと言ってもよいだろう。

みすきす
「キャンティ」の一皿   出典:みすきすさん

もちろん、それまでにも麻布台「キャンティ 飯倉片町本店」や青山「リストランテ・サバティーニ 青山」、そして今はなき九段「ラ・コロンバ」といった一流リストランテは存在していた。

しかし、その多くはフレンチとさほど変わらぬ高級店で、限られた人たちだけが行く店だったように思う。それが80年代になると、イタリア料理界が少しずつ活気を帯びてくる。

1983年に片岡護シェフが西麻布「アルポルト」を立ちあげると、1982年には落合務シェフが赤坂「グラナータ」の料理長に就任。時を同じくして外苑前には、室井克義シェフをはじめとした数多くの名料理人を輩出した「ビザビ」(2010年閉店)が産声を上げる。

続く1985年には、あの伝説のイタリア料理店「バスタ・パスタ」がオープン。そして、1986年には乃木坂「リストランテ山崎」や浜松町「トゥリオ」、1987年に神楽坂「カルミネ」と話題店が次々にオープン。当時の美食界を席巻していった。

【80年代後半】時代はフレンチからイタリアンへ。イタメシブームの火付け役的名店が恵比寿に誕生

時代のトレンドがフレンチからイタリアンへと少しずつ移行しつつあったまさにそのとき、センセーショナルな一軒が恵比寿に誕生した。“ボナセーラ店”と異名をとった「イル・ボッカローネ」がそれである。

活気あふれる「イル・ボッカローネ」店内
活気あふれる「イル・ボッカローネ」店内   写真:お店から

この店の出現が、イタリア料理の人気を不動のものとし、“イタメシブーム”なる言葉を生んだ契機になったと言っても憚らない。

具留目恥垢
「イル・ボッカローネ」の一皿   出典:具留目恥垢さん

とにかく陽気。細かいマナーは気にせず、食べることをとことん楽しむ。そんなイタリア人気質が、堅苦しいマナーに縛られたフランス料理よりも魅力的に映ったのだろう。また、魚介が多く素材重視の料理テイストも日本人の舌と胃袋にはぴったりフィットしたわけだ。

【90年代前半〜中盤】イタリア帰りの日本人シェフたちが次々独立! 後の日本イタリア料理界の礎に

さらにこのブームに拍車をかけるように、イタリア帰りの若きシェフたちが続々と独立していった。西麻布から外苑前に移転した「リストランテ アクアパッツァ」の日高良実シェフ、ともにかつて西麻布にあった「ダノイ」の小野清彦シェフ、「ヴィノッキオ」の山田宏巳シェフに、今はなき六本木「ラ・ゴーラ」の澤口知之シェフetc。新進気鋭の若きシェフたちが綺羅星のごとく現れ、しのぎを削っていた。

思えば、この世代のシェフたちの健闘ぶりが、後の日本イタリア料理界の礎となったのではないか、と思うことがある。なぜなら、彼らのもとから、今に至る数多くの名料理人が巣立って行ったからだ。

サプレマシー
「リストランテ濱崎」の一皿   出典:サプレマシーさん

目黒「リストランテ カノビアーノ」(1999年オープン時は代官山)の植竹隆政シェフ、「リストランテ濱崎」(2001年オープン)の濱崎龍一シェフ、麹町「ロッシ」(1993年オープン時は六本木)の岡谷文雄シェフなどがその代表的なところだろうか(彼らのもとからもさらに多くの料理人が羽ばたいている)。