【食を制す者、ビジネスを制す】
三菱・岩崎家当主が愛した居酒屋で“紳士”を学ぶ
三菱グループ創始者、岩崎弥太郎
日本最強の企業グループはどこか。そんな問いに対して、「三菱」という名を思いつく人は少なくないだろう。三菱商事、三菱東京UFJ銀行、三菱重工業を中核に一大グループを形成し、国内だけでなく世界においても大きな影響力を有している企業群だ。
そんな三菱グループの創設者といえば、岩崎弥太郎である。地下浪人の出身からスタートし、徒手空拳で成り上がった人物である。だが、弥太郎が三菱商会を興して、オーナー経営者となったのは38歳のときで、死を迎えたのが50歳だったから、表舞台で活躍したのは意外にもわずか12年に過ぎないのである。
岩崎弥太郎は天保5(1835)年、土佐で生まれた。ちなみにあの福澤諭吉と同い年である。地下浪人(下級武士よりもさらに下の階級)の子息だったため、なかなか這い上がることができなかった。しかし、弥太郎は土佐藩の殖産興業対策の人材として登用されて以降、次第に実業家としての基礎を磨いていくことになる。
明治維新から数年、藩の力が弱ってくると、弥太郎は大転換を起こす。弥太郎は上京し、藩の事業を分離して自らが経営することを主張。新たに九十九商会という名で発足させた。さらに三川商会に社名を変え、明治6(1873)年三菱商会に改称した。
この時点で弥太郎は三菱商会のオーナーとなり、38歳にして名実ともに表舞台に立ち、海運業界に進出していく。
三菱商会は、その後、郵便汽船三菱会社となり、明治8(1875)年、外国海運会社と対抗するため、日本最初の外国航路として横浜・上海間に週一回の定期航路を開いた。弥太郎は値下げ競争などあらゆる施策を尽くすほか、政府の力を借り、外国海運会社を退けていく。弟の弥之助を副社長に据え、外国海運会社との苦闘のなか、弥太郎は現在の三菱グループの礎を築いていくのである。
三菱・岩崎家の平成の当主が通った店
その後、弥太郎が海運を独占するようになると「三菱許すまじ」と、明治15(1882)年、三井財閥と密接な関係にあった薩長閥の井上馨が音頭をとり、三菱包囲網が形成され、海運会社である共同運輸会社が設立されることになる。
三菱と共同運輸は熾烈な値下げ合戦を繰り広げ、互いに譲らなかった。弥太郎も必死で対抗したが、値下げの無理がたたり両社は疲弊。水面下では無益な競争を回避するために合併交渉が行われていた。
だが、そのさなかの明治18(1885)年、仕事の無理がたたり、弥太郎が亡くなってしまうのである。肝心の合併交渉は経営を引き継いだ弟の弥之助ら幹部によって進められ、同年合併を果たし、日本郵船が設立された。合併によって三菱の力は分散されるかにみえたが、実際には持株比率は三菱側が多く、次第に共同運輸系の役員は姿を消し、結局、三菱が経営を掌握することになった。それがいまも続く日本郵船である。
その後の三菱は弟の弥之助を中心にして、「海」から「陸」へ三菱の発展を見いだし、事業を拡大していくのである。
そんな岩崎弥太郎直系の後継者が、平成の世までいた。岩崎家当主、元三菱銀行取締役の岩崎寛弥氏である(1930-2008年)に死去している。寛弥氏は、岩崎家が設立に関わった旧制成蹊高校から東大経済学部に進み、就職した旧三菱銀行では超エリートラインと言われる本店第一営業部長を経験。役員に昇進してからは、将来の頭取候補と言われた時期もあった。その後、寛弥氏は退行し、岩崎家がオーナーとなる東山農事の経営に携わった。同社は小岩井農場、小岩井乳業の大株主でもあった。
そんな寛弥氏と生前交流のあった人たちの話を総合すれば、寛弥氏は「見識が高く、財閥家の当主として帝王学を受けて育った優秀な人だった」という。
寛弥氏は酒好きとしても知られ、夕方には丸の内の東京會館のバーでゆっくりお酒を嗜むことを常としていた。行きつけの寿司屋に行けば、店の主人が「今日は縁起がいいや」と店を閉めて飲みに誘うほど、人から好かれる面もあったという。
そんな寛弥氏がよく通っていたのが、自宅近くの文京区湯島にある居酒屋の名店「シンスケ」だった。店内はうるさ過ぎず静か過ぎず、ちょうどいい雰囲気。料理のメニューはオーソドックスだが、どれも丁寧につくられており、一つひとつが本当にうまい。それに特注の一合徳利で秋田の日本酒「両関」をやっていると、次第に心は穏やかな気分で満ちてくる。お客さんは紳士淑女の酒飲みが多いらしく、大人の雰囲気で落ち着いている。三菱関係者もよく利用していると聞く。
ちなみに、もう一つ同じ居酒屋の名店を紹介するなら、自由が丘にある「金田」を挙げる。こちらも店内は大人の雰囲気で、酒肴はどれもうまい。ただし、盛り上がって騒いでいると、お店の人に注意されるから気をつけること。こうした店は1~2人で行くことをお勧めする。そうしたほうが自分も楽しめる。大人数で行くのは野暮というものである。