レディー・ガガも愛したアーティスト舘鼻則孝が挑んだ、オンリーワンなレストランとは

 

レディー・ガガの靴をデザインしたことで一躍その名が知られることとなった舘鼻則孝さん。今では靴をはじめとする作品制作や、インスタレーションや文楽公演の監督、そして食の領域にまで活動の場を広げ、世界的に高い評価を受けている。日本を代表するアーティストの一人である舘鼻さんのトータルディレクションによるレストラン、コーテシーが9月29日オープンした。また新たなチャレンジを試みた舘鼻さんに、自身の食のヒストリーを尋ねた。

 

 

―小さい時の食にまつわる記憶は?

 

外食に一切行かない家だったんです。父が外に出かけるのが嫌いだったこともあり、食事は全て家。おやつも何もかもが母の手づくりで、それがコンプレックスというか……。友達からファミレスの名前とか聞いても全然わからないし、マクドナルドにも行ったことなくて。1年に1度、夏休みに家族旅行に行った時に、渋滞とかにはまって夜になっちゃって、外食する、っていう。それが本当に嬉しかったのを覚えてます。

 

―お母様は何でも手作りされていたとか。ある意味とても豊かな食生活ですよね。

 

今になって振り返るとそう思います。でも子供のときは、友達の家に遊びに行って不二家のケーキとかを出してもらうとすごく羨ましかったですね。うちのおやつは母親の手づくりのキャロットケーキですから。でもそのときはすごくイヤで。うちは貧乏なんだと思ってました(笑)。

 

―ご自身の意思で家以外で食事をするようになったきっかけは?

本格的な外食デビューは高校1年。美大受験のために予備校に通い始めたんですが、夏休みになる1日中予備校で制作をすることになるので、昼食休憩の時に生まれて初めてマクドナルドに行きました。注文の仕方もわからなくて。でも、当時はハンバーガー80円の時代で、高校生にはありがたくて、毎日通ってました。

 

 

–家以外で食事をするようになって、何か舘鼻さんにとって変化はありましたか?

自分で食事を決められるという自由さが新鮮でしたね。高校生のときなんて、全然お金ないから、せいぜいファストフードとかですけど、それでもなんだか嬉しかった。今でこそ「○○食べに行こう」なんて、食事そのものが目的になったりしますが、若いときは誰かと一緒にいたいから、という側面がとても強かったです。僕にとって食事は、友達同士をつないでくれるもの。何を食べて美味しかったというより、誰かと一緒にいたその場面を思い出すんです。予備校の友達と将来について語り合ったり、大学の友人たちと集まっては飲んでご飯をしてアートについて話した、そんなシーンを思い出しますね。

 

——現在、ご自身の外食のスタイルというものはありますか?

 

大学を卒業してからずっと表参道界隈が拠点なんです。ずっと通ってる店は何件かあるんですけど、共通しているのはそこの店員さんが好きなこと。

ひとりのときは、AtoZカフェやニドカフェによく行きます。スタッフみんなで近所へランチに行くときはタヒチ。店の人と喋るのがすごく好きなんです。仕事のことを話さなくていいから、心からリラックスできる。小さい時に外食に慣れてないというのも影響している気がしますよね。ご飯は家で食べるもの、つまりリラックスできる時間というか。空間がすごく重要なんです。僕にとっては。

 

——誰かと行くときはどんなことを大事にされてますか?

 

二人で食べるか、大勢で食べるかがすごく好きです。4、5人とかって話しづらくて苦手なんです。誰と食べるかっていうのは、僕にとって一番大切なので、それありきで店を考えますね。じっくり話したい相手のときは3時間くらいのコースがあるところ、といった店の選び方をしたり。展覧会の打ち上げなど、30人くらいの規模のときは西麻布のハウスが定番。こちらの要望をわかってくれているので安心して任せられるんです。

 

 

——舘鼻さんといえば、海外で認められたアーティストの一人ですが、花魁の下駄をモチーフとした靴をデザインしたり、文楽公演を手がけられたり、日本の伝統文化とのコミットメントの深さを感じさせます。日本の食文化に対してはなにか思い入れはありますか?

 

もともとの興味は海外だったんですよ。留学を考えていて。でも、世界で戦うんだとしたら、むしろ自分の武器になるのは日本の文化を知ることだろうと。そう思って、芸大を目指したんです。西洋に憧れて作品を作ったら、日本では売れるけど海外では売れない。日本人としてのアイデンティティをもって創作活動をすることが一番かな、と。

それに対して、和食はもっとすごく身近なもの。僕にとってはリラックスできるものです。母の作る食事は和食中心で魚料理が食卓に上ることが多かった。だから、AtoZカフェの刺身定食とかすごくほっとするんです。

ただ、今こうして活躍の場を与えられて、海外から日本まで会いにきてくれる人も増えて。そうすると日本のいい所を紹介してあげたいと思うんですよ。でも、実はあまり知らなくて。こないだも、リクエストされて星のや富士に海外からのゲストと一緒に行ったんですけど、富士山のこんな近くにきたことなんてないなあ、と思って。寿司は鄭秀和さんに連れて行っていただいた不動前 岩澤に行ったりしますが、まだまだ勉強しなければと思います。

 

——アーティストとして刺激を受けたレストランはありますか?

 

こないだプライベートの旅行で行った北海道のリゾート、坐忘林の食事は素晴らしかったです。どの料理が突出していいとかではなくて、そこから見える景色、空間、料理、食器、のバランスがすごくよくて。今って北海道のウニだってすぐに東京で鮮度の高いものが食べられますよね。でも、そこでしか得られない体験があるっていうのが、すごく大切なんだと実感しました。滞在型のホテルで、朝食をとって、昼出かけてから、夜ホテルに戻って食事をするのがすごく楽しみだったんですよね。食器もたくさん買って帰った程です。

 

海外に行くとそれなりにいいところに泊まっても、昼は仕事でホテルにずっといないし、会食とかもあるから、ホテルで食べないことも多くて。だから旅行の滞在先をトータルで楽しめたというのはとてもいい体験でした。

 

——最近は食のフィールドでの活躍も目立ちますね。

 

そうですね。とらやさんやパレスホテル東京さんで、スウィーツのディレクションをさせていただいて、すごく楽しかったです。僕、甘いものが好きなんですよ。自分の好きなモノをつくって、最終的に自分も食べられるっていうのが楽しいですね。例えば、靴をお客様に履いていただいた時に嬉しそうな顔を見られた時もすごく嬉しいんですけど、食べ物はお客様と自分が喜びを共有できる楽しみがありますよね。

 

 

——今度、全体のクリエイティブディレクションを手がけられたコーテシーについて教えてください。

 

トータルでのクリエイティブディレ ションを手がけたことも大きなポイントですが、私にとって初めて 建築空間を手がけたプロジェクトでもあります。ミュージアムライクなレストランがコンセプトで、空間もホワイトキューブに近く、ギャラリーのようなつくりです。

 

そこに彫刻や絵画などのアート作品が並び、それらに囲まれながら食事をするというスタイル。僕以外の作品も一部入り、そのキュレーションも手がけました。食の空間としては異質といえば異質かもしれないけど、そこでしか得られない体験を提案したいと思っています。

photo:GION

 

 

1年に1回は作品を入れ替える予定で、常になにか新しい刺激が受けられるような場所にしたいですね。

 

 

1985 年、東京生まれ。歌舞伎町で銭湯「歌舞伎湯」を営む家系に生まれ鎌倉で育つ。 シュタイナー教育に基づく人形作家である母の影響で幼少期から手でものをつくることを覚える。 東京藝術大学では染織を専攻し遊女に関する文化研究とともに友禅染を用いた着物や下駄の制 作をする。卒業制作であるヒールレスシューズは花魁の下駄から着想を得たものである。 近年はアーティストとして展覧会を開催する他、伝統工芸士との創作活動にも精力的に取り組んで いる。2016 年 3 月には、仏カルティエ現代美術財団にて人形浄瑠璃文楽の舞台を初監督 「TATEHANA BUNRAKU」を公演した。 作品はニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館などに永久収蔵されている。

 

 

■舘鼻則孝さんの食アドレス

1  タヒチ

2 AtoZカフェ

3 HOUSE

4  坐忘林