〈おいしい歴史を訪ねて〉

歴史があるところには、城跡や建造物や信仰への思いなど人が集まり生活した痕跡が数多くある。訪れた土地の、史跡・酒蔵・陶芸・食を通して、その土地の歴史を感じる。そんな歴史の偶然(必然?)から生まれた美味が交差する場所を、気鋭のフォトグラファー小平尚典が切り取り、届ける。モットーは、「歴史あるところに、おいしいものあり」。

第9回 世界文化遺産・天草で、「白身魚の寿司」と「シモン芋のうどん」を味わう

 

天草は蒼い海に囲まれ、大小120余の島々からなる熊本県の諸島。福岡空港から飛行機でひとっ飛びで30分強。それに毎日3便も運行している。東京からでもうまくアクセスするといつの間にか誰にも邪魔されない“孤島”に到着である。

九州本土とは、天草五橋と呼ばれる5つの橋で結ばれている。日本最大級の肉食恐竜の化石が発見された恐竜の島に、南蛮文化やキリシタンの歴史を伝える建物もある。海に囲まれた自然と日本独特の南九州文化に育まれたのんびりした島だ。 気候も安定しており一年通していつでも海の幸や山の幸の旬の食を楽しめる、食いしん坊にとってパラダイスのような島。

ここ天草は、禁教下に仏教、神道、キリスト教と共存しながら信仰を続けた集落として評価され「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の1つとして世界文化遺産に認定された。この類まれな歴史観をいつまでも天草に暮らす人々が大切にしてきたことが決め手になったことは間違いない。

 

ちょっと天草四郎(あまくさ しろう)についてふれてみよう。本名を益田四郎時貞といい、元和7年(1621)江部村に生まれた(大矢野島、長崎で出生したとの諸説あり)。父益田甚兵衛はキリシタン(切支丹)大名小西行長の元家臣で、小西家没落後、江部村で農業を営んでいた。家族ともに敬虔なキリシタン信徒だったそうだ。当時の天草は、飢きんや重税とキリシタン弾圧に苦しみ、民衆の不満は頂点に達していた。寛永14年(1637)、長崎留学から帰った四郎が様々な奇跡を起こし、神の子の再来と噂される。四郎の熱心な説教は人々の心をとらえ、評判は天草・島原一帯に広まり、遂には一揆の総大将に押し立てられ、島原の乱での一揆軍の最高指導者となった。

天草の﨑津集落は天草市河浦町に位置する。漁村の中に佇む教会や歴史を感じさせる神社、風情ある家々などが迎えてくれ心落ち着く旅ができる。

 

聞けば、ほとんどの宗教が食に対する違和感をもつといわれている。例えば、仏教のように慈悲の精神から肉食を禁じるものもあり、キリスト教のような一神教は人々に強い拠り所を与えたと思う。キリシタンの歴史が天草の食文化にどのような影響を与えたのか。興味深いテーマだ。

 

さて、天草といえば寿司の名店がひしめく。
今回は見栄を張って、こちらの名店へお邪魔した。

新鮮な白身魚と天然天草塩の、絶品コンビネーション

奴寿司

ここは天草でも有名なお店。僕らは頑張ってランチをいただいた。夜は予約が2カ月待ちらしい。まあ、旅に来たら少しの贅沢は良いだろう。知らない土地でのおいしいもの探しに食べログは欠かせない。検索が便利なのはもちろん情報をしっかりリサーチすると思わぬ収穫がある。

天草の寿司は白身魚が中心。
これが新鮮で天然天草塩との相性バッチリ、実にうまいのなんの。

濃厚な魚のダシが染みいる。お椀ももれなく最高の味わいだった。

名物シモン芋で作ったうどん

少し散歩すると今や名物になったシモン芋を見つけた。
シモン芋は、1972年に原産国ブラジルから日本に持ち込まれた、白サツマイモの一種で、なんと2000年前から中南米先住民インディオの民間薬として重宝がられ、葉酸・ビタミンA・E・Kが豊富でパントテン酸など身体に必要な栄養素が含まれており、成人病予防や健康維持に効果的だそうだ。主産地の倉岳では町をあげて土から自然農法を試み、自然栽培に取り組んでいる。

 

ぶらりと入ったお店で食べたシモン芋のうどんも実にうまかった。シモン芋の焼酎などもあるらしく、次回はたしなんでみたい。

 

多くの戦国武将や民衆の信仰を集めながら、徳川幕府の禁教令によって潜伏を余儀なくされたキリスト教。天草は日本が新しい時代を最初に感じた地域でもあり、生きていくことが大変な時代を乗り越えた場所ではある。そこには、天草ならではの、食はもちろんあらゆる分野の生活基盤が存在していたはず。その奥深さは一度のみでは到底つかめず、何度か足を運びたいと(そしておいしいものをもっと食べたいと)強く思った。

 

天草市のお店、レストランはこちらより>

 

写真・文:小平尚典