6/28は年に一度のパフェの日!お菓子の歴史研究家、パフェを語り尽くす

「フルーツパーラー ゴトー」のパフェ/写真:食べログマガジン編集部

 

6月28日は、年に一度のパフェの日です。

 

フルーツ、アイスクリームなどがグラスにみっちりと詰まった魅惑のスイーツであるパフェにとことん魅了されたのは、スイーツ連載でもお馴染みお菓子の歴史研究家・猫井登氏。そんな猫井氏に、“パフェの日だからこそ食べたい完璧なパフェ”を教えてもらうべくパフェの日に向けた記事を掲載したいと依頼したところ、「それならば、まずはパフェについて知るところからでしょう!」というアツい回答とともに届いたのは、A4用紙7ページにもわたる小論文並みの原稿でした。

 

というわけで、序・破・急の3篇に分けてお送りすることになった、パフェの日緊急企画! まずはパフェへの敬意を込めて、その甘美なるスイーツの歴史を教えてもらいましょう。

 

猫井先生、お願いします!

衝撃…パフェの日の由来にスイーツは無関係だった

【1】パフェの語源

まずは、「パフェ」の語源をみてみよう。日本の「パフェ」という語は、フランス語で「完全な」を意味する「パルフェ(parfait)」を英語風に発音したものに源があるといわれている。

 

【2】パフェの日の由来

次に、なぜ6月28日が「パフェの日」なのか、という点については、1950年6月28日に巨人軍の藤本英雄投手が、西日本パイレーツとの試合において日本プロ野球史上初のパーフェクトゲーム(完全試合)を達成したことに因み、上記のとおり、フランス語で「完全な」を意味するパルフェが語源となっているパフェとかけて制定されたものであるとされており、残念ながら、お菓子の歴史上の出来事に由来するものではない。

 

【3】パフェの歴史

とりあえず、語源やパフェの日の由来が明らかになったところで、本題のパフェの本質論に入っていこう。まずは、パフェの歴史から考えていく。パフェの構成要素の中で欠くことが出来ないのがアイスクリームである。そこで、まずはアイスクリームの歴史をひもとく。

パフェを語るのに欠かせない「アイスクリームの歴史」を学ぶ

いわゆる氷菓の始まりについては、アレキサンダー大王が山から雪を運ばせ、冷たい飲み物を戦場の兵士に与えて士気を高めたなど、枚挙にいとまがない。今日の氷菓に直接結びつくのは11世紀頃にアラブ世界にあった「シャルバート」という飲料である。これはバラや麝香(ジャコウ)で香味をつけた砂糖水を山の氷雪で冷やした飲み物であった。これが十字軍の遠征に伴ってイタリアに伝わる。イタリアでは製法に様々な工夫がなされ、名前も「ソルベット」に変わり今日のシャーベットの原型となる。

 

「アロマフレスカ」のシャーベット/出典:tomkagaiさん

 

16世紀初頭、水に硝石を入れると溶解の吸熱作用で水の温度が下がることが発見され、次いで16世紀中ごろには氷に硝石を加えるとマイナス20℃まで温度が下がることが発見され、人工的にシャーベットを作ることが可能となる。1533年には、カトリーヌ・ド・メディシスの輿入れにより、フランスにシャーベットが伝わり、生クリームなどと結びつき、アイスクリーム(フランス語では「グラス(glace)」と呼ぶ)の原型となっていく。

パルフェとは一体何なのか?

次の問題は、パフェの語源となったフランスの「パルフェ」とは、いかなるものか、アイスクリーム(グラス)とは異なるのか、である。パルフェとは、パータボンブ(卵黄に熱したシロップを加えて撹拌したもの)と同じくらいの硬さに泡立てた生クリームを混ぜ合わせ、型に入れて冷やし固めたものである。アイスクリームのように撹拌しながら凍結させるのではなく、静置凍結させるので、しっかりと凍結し、溶けにくく、包丁で切っても形崩れしにくい。

 

フランス第二帝政(ナポレオン三世)の時代(1852年〜1870年)に供された、「クレーム・オ・カフェ」がパルフェの原型とされる。重すぎず、軽すぎず、極めて優れた逸品ということで、「パルフェ(完璧な)」という名が付けられたという。

日本にパルフェを取り入れた、ある一人の料理人

ここで、当時の日本に目を転じてみよう。1868年に明治維新が起こり、新政府は欧米列強から日本が植民地化されるのを防ぎ、対等な立場で交渉するため必死になっていた。外国からの賓客や外交官に対する欧米式の接待は必須とされ、1870年には、明治天皇より、今後外国からの賓客をもてなすにあたっては、フランス料理をもって行う旨の指示が出される。

 

これに伴い、宮内省大膳職(料理責任者)にあった村上光保が洋菓子の製法を学ぶべく、横浜外人居留地でホテルと洋菓子店を経営していたサミュエル・ペールという料理人・製菓人のもとに出向する。1883年には、外国からの賓客をもてなす迎賓館として「鹿鳴館」が建設される。村上は、鹿鳴館においてもその技術を遺憾なく発揮し、洋菓子一切の製造を担当した。

 

1884年、鹿鳴館で催された西洋舞踏会に参加したフランス人ピエール・ロティはその著作『秋の日本』にアイスクリームが供された旨記述しているとされるが、ここでいうアイスクリームは、「パルフェ」のことであろう。サミュエル・ペールがフランスで人気を博した「パルフェ」を村上に伝授したことは想像にかたくない。

 

宮中晩餐会の舞台となる「明治記念館」/出典:ヒーリングタイムさん

 

また、現在も宮中晩餐会で供されるアイスクリーム「グラスFUJIYAMA」は、「パルフェ」というフランス伝統菓子でカスタードクリームにホイップした生クリームを加えたものが原型で、銅製の富士山の型に流し込んで凍らせたものだといわれている。

〈パルフェからパフェへの変化その1〉“天皇の料理番”の著書に有力情報あり!

ここまでで、パルフェが日本に伝わった経緯は明らかになったが、パルフェが現在日本で見られるパフェとは大きく異なるのは明らかである。いかにして、「パルフェ」は現在の「パフェ」へと変化したのか。当時のスイーツ業界の状況をみてみよう。1900年代に入ると、日本では新しい業態が次々と開店する。

 

「千疋屋総本店 フルーツパーラー」のパフェ/出典:K-BIGSTONEさん

 

1902年、資生堂パーラーがアメリカのドラッグストア形式を模して、日本で初めてのソーダ水やアイスクリームの製造と販売を行う「ソーダファウンテン」として誕生し、アイスクリームをソーダに浮かべた「アイスクリーム ソーダ」などが供される。1913年には、銀座千疋屋が日本初の「果物食堂フルーツパーラー」を開店。また1923年には同店により「フルーツポンチ」が考案された。

 

極めつけは、1924年、「天皇の料理番」として名を知られる秋山徳蔵の著書「仏蘭西料理全書」の刊行である。驚くべきことにこの著書にはフランス版パフェともいうべき「クープ(coupe)」の項目が独立して設けられ、さまざまなバリエーションが紹介されている。つまり、少なくともこの時点で日本人は、フランス版パフェの知識をも有し、すでにパルフェも現在のパフェに通じるものに変化していた可能性がある。

〈パルフェからパフェへの変化その2〉アメリカの「サンデー」がパフェへ大きな影響を与えた?

パフェを考えるにあたってよく引き合いに出されるのが、アメリカの「アイスクリーム・サンデー(以下、サンデーと略す)」である。サンデーとは、アイスクリームやホイップクリームにアイスクリームソースをかけたもので、1890年代初頭に登場したものである。一説によれば、ある町の清教徒的厳法により、それまで親しまれていたアイスクリーム・ソーダが安息日(日曜日)に口にするのは軽薄な飲み物であるとされ、販売禁止になったことから、その代用物として誕生したとされる。

 

つまり、アイスクリーム・ソーダが禁止されたので、ソーダ水なしのものを作ったのがサンデーの始まりとされる。日曜日に作られたので、サンデーと呼ばれた。このデザートを最初に作ったのが誰かについては今なお論争があるが、このお菓子は全米で爆発的な人気を獲得し、20世紀初頭までにさまざまなメニューが考案されたという。

「T.G.I FRIDAYS 渋谷神南店」のサンデー/出典:poposatさん

 

1945年、日本は無条件降伏。横浜のホテルニューグランドはGHQに接収され、アメリカ人将校とその夫人が宿泊していた。ホテルでは食事のデザートにも気を使い、将校の夫人たちが喜ぶような、見た目にも華やかでボリュームのあるものを出す必要があった。アメリカのお菓子学校の教科書を参考に考案されたのが、プリン、アイスクリーム、缶詰のフルーツなどを盛り合わせた「プリン・ア・ラ・モード」である。

 

このような事情などを勘案すれば、アメリカのサンデーが、パルフェをパフェに変化させる要因の一つとなったことも否定できない。

まとめ

国策として取り入れられたフランス料理からパルフェが日本に伝播し、その後、次々と開店する新業態の商品、秋山徳蔵の著書によるフランス版パフェの影響、アメリカのサンデーの影響などを受けながら、現在見られるパフェに変化していった。

第2弾では、世界で異なるパフェの特質に迫ります!

第2弾となる〈破〉篇では、パフェの本質にぐいっと迫ります。フランス、イギリス、ドイツ、イタリアなど、世界で様式の異なるパフェの特質とは? 次回の配信をお楽しみに!

 

文:猫井登