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「食べログ 百名店」パン部門で高い評価を得た、全国上位100軒のパン屋さん。そのラインナップをもとに、パンラボの池田浩明さんが、今知っておきたいパンをとりまくキーワードを選出。その解説とともに、関連するパン屋さんを紹介します。
テーマは、月替わりで更新。続けて読めば、パンがもっと好きになること必至。奥深いパンの世界へ、いざ出発!
Keyword 01 「自家培養」
手間と時間が育む、味わい深いパン
東京・富ヶ谷「ルヴァン」
パンという神秘。
粉と水を合わせておいておくだけで、ぷくぷくと泡が湧いてくる。粉についていた酵母が息をしはじめたのだ。
これが「発酵種」(俗にいう天然酵母)と呼ばれるもの。
エジプトで約5千年前にはじまったのと変わらない原点のパン作りである。
かつてパンといえばこうして作られるほかなかったにもかかわらず、昭和に入りパン酵母(イースト)が普及すると、発酵種から作られるパンはほぼ姿を消してしまった。
専門店が再び登場したのは1984年。
東京・富ヶ谷のルヴァンにさかのぼる。
その歴史は店のたたずまいや店内のなんともいえない空気感が物語る。
発酵種において、時間の経過は、ただ古いということを意味しない。
厨房の天井を見る。
たくさんのシミがついているのが見えるだろう。
微生物たち。
日本酒の酒蔵にたくさんの菌が住みついていい酒を醸すのと同様、この建物自体が発酵のゆりかごとなり、パンを育む。
レーズンから起こした種は創業以来継ぎ続けられ、うなぎのタレのように深みを増していく。
原点となるパンはカンパーニュ317。
レーズン種特有のワイルドな香り、レモンのようなキレのある酸味が特徴。
さらには、栃木の自然栽培農家・上野さんによる小麦(店内で自家製粉)のテロワール、国産小麦ならではの甘さがあいまって、滋味深い風味が醸し出される。
兵庫・西宮「ameen’s oven」
種を自家培養して作るパンの専門店、西の代表格はameen’s oven(アミーンズ オーヴン)。
三島祥司さんは若い頃インドを放浪した人。
そこで体得した自由な生き方をパンを通して実現しようとしている。
パン酵母(イースト)を使わず、ゆっくりと、菌にまかせて発酵させる。
思いの籠もった味わい深いパンができあがる。
店の外にある看板には、こう書かれている。
「ONE OVEN, ONE TABLE AND ONE LOVE」(ひとつのオーブン、ひとつのテーブル、そしてひとつの愛)
それは、ヨーロッパで昔、村にたったひとつある窯を、共同で使った時代(もちろんすべてのパンが自然な発酵で作られていた)への憧憬がある。
カフェスペースには大きなテーブルがたったひとつ。
偶然隣り合った人たちのあいだで会話が生まれることを期待してのこと。人々がばらばらになるのでも、争い合うのでもなく、ひとつの大きな愛でつながりあうコミュニティ。
ここで飲むオーガニックのお茶、農家から直送された野菜のサラダ、そしてパン。
力のある食べ物は大事ななにかに気づかせてくれる。
埼玉・幸手「cimai」
ひとつの種がたくさんのパンを生むように。
ルヴァンの哲学は、そこでパンを学んだ卒業生たちによってさまざまな土地で芽吹いている。cimai(シマイ)はその精神性や美学をもっともよく受け継ぐ一軒。
白く塗った壁、アンティークの陳列台、そこに置かれたパンたちのうつくしさ、愛らしい表情。店名通り、姉妹が営む。
ルヴァン出身の姉・大久保真紀子さんは自家培養した種でパンを焼く。
全粒粉などを使用していながら硬いだけのパンではない。
歯切れがよく、テクスチャーは実にやわらかく、それでいて味わいはあふれだすようだ。
自然の恵みをそのまま焼き上げたようなフルーツパン。
組み合わせのアイデアが光る、黒糖くるみ、ライ麦チョコ。
パン酵母(イースト)でパンを焼く妹が、三浦有紀子さん。
材料を切り詰め、味わいを研ぎ澄ました、引き算の美学。
食パン、あんばたは一度食べれば必ずリピートしたくなるだろう。
東京・調布「AOSAN」
公園のそばにあるパン屋さん、AOSAN(アオサン)。
遊具で遊ぶ子供たちに帰る時を告げる大きな時計が目印。
店内から漂ってくる濃厚かつまろやかな香りは、この店が自家培養する種でパンを焼く店だと告げている。
自慢のレーズン種は、修業先ルヴァンの方法を受け継ぎ、発展させたもの。パン酵母(イースト)によるパンにもそれは入れられ、やわらかくも複雑な熟成感に満ちたパンを作り出している。
とろっとした、と表現すべきか、奇跡的な食感を持つ角食パンが有名。
角食パンを買えなかったとしても落胆する必要はない。
魅力のほんの一部にすぎないのだから。
たとえば、まるぱんにバターと山イチゴのジャムを塗ったジャムフルーツサンド。
かぼちゃパンは、砂糖ではなくかぼちゃそのものの甘さを発見できる、子供たちに大人気のパン。
体にやさしいおやつを子供に食べさせられることも、公園のそばにあるパン屋さんの大事な役目である。
東京・祖師ヶ谷大蔵「ラトリエ・ドゥ・プレジール」
自家培養発酵種によるパンの最先端を行く店。
小麦と発酵種が重なり合うとき、そのハーモニーによって無限に音楽が生まれるのだということを教えてくれる。
管理する発酵種の数、30種類。
世界から取り寄せた麦を自家製粉。
まるで音楽家が和音を奏でるように、これらの種数種と小麦を自在に組み合わせて、ありえない風味を生む。
粉と水の種と塩だけで作られるバゲットにバラのフレーバーを感じるなんて、信じられるだろうか?
それは広がりゆく甘さと刹那の酸味によって幻灯のように変化していくのだから。
ル・パン・ド・メテイユが見せてくれる夢は、白ワインでも口にふくむかのような芳醇さ。
クグロフはブリオッシュのような甘いパン。
マリー・アントワネットも大好物だったといわれるこのパンを、栗やレーズンなどさまざまなフルーツも練りこんで贅沢なパンに仕立てる腕は、当時の宮廷パン職人もかくやと思われる。
田中祐治シェフは眠らない。
30種類の種を継ぐタイミングは次々とやってくるし、ひとつのパンにかかる工程と時間も半端ではない。命をかけてパンを作るのはなぜなのか。
「前よりもどんどんおいしいものじゃないと、俺が店をやる意味がまるで見つからないんですよね。だから、捨て身の覚悟でできるところまでやってやろうと」
ラトリエ・ドゥ・プレジールのパンを食べるたび、伝説に立ち会える幸福を噛みしめている。
パン酵母(イースト)が1種類の菌による正確なメトロノームだとすれば、自家培養した発酵種は、無数の菌の自由な生命活動が生むオーケストラ。
この奥深い森にぜひ分け入ってほしい。
次回へ続く。
PROFILE
ブレッドギーク(パンおたく)、パンライター。パンの研究所「パンラボ」主宰。パンを食べまくり、パンを書きまくる。主な著者に『パンラボ』(白夜書房)、『パンの雑誌』(ガイドワークス)など。
http://panlabo.jugem.jp/
twitter/@ikedahiloaki