目次
【おいしいパンのある町へ】
Vol.4
東京・荏原町「Cafe de LA TÂCHE(カフェ・ド・ラ・ターシュ)」
自由が丘や二子玉川など、東京でも人気のショッピングエリアとして名高い駅が並ぶ、東急大井町線。ターミナル駅となる大井町駅から4つめとなるのが、荏原町駅。落ち着いた住宅街という言葉がぴったりな雰囲気で、ほかの駅に比べて店の数も少ないものの、センスが光る個人商店が目を引く。
ここ荏原町で、日本にフランスパンを広めた第一人者として知られるフィリップ・ビゴ氏のパン作りを継承するパン屋がオープンしたという情報を入手。人通りもまばらな駅前を通り抜け、住宅街を歩き続けること、約8分。赤いレンガと木枠の窓が柔らかな雰囲気を醸し出すこここそが、今回の取材先「カフェ・ド・ラ・ターシュ」だ。
酪農家からパン屋になるまで
東急目黒線沿いの武蔵小山で生まれ育ったオーナーの田上和男さんは、元酪農家という異色の経歴の持ち主。物心がついた頃から牛や羊などへの興味を持つようになり、高校を卒業後、北海道の酪農場に就職。働き始めてから3年目となったころから、“酪農をしながら、何か新しい商売ができないか”と考えるようになったという。
「自分が作る牛乳やバターを使って、何か作りたかったんですよね。それで思いついたのが、パン。特別好きだったわけでもなく、ほんと、思いつきで……(笑)。修行のために東京へ戻り、『ビゴの店』での求人を見つけて。調理学校や紹介で入店する人がほとんどらしく、飛び込みは自分が初めてだと言われました」
カスタードクリームの作り方すらもわからない、全くの素人として飛び込んだ、パンの世界。そのため最初の3年間は、苦労の連続だったという。「毎日ヘトヘトになるまで働いていたので、休みの日は家で寝てばかり。気分をリフレッシュするために散歩していたときに、ここ荏原町を訪れたんです。昔から何度か訪れたことはありましたが、歩いてみると改めて、いいところだなあ、と。理由はわからないのですが、落ち着くんですよね。それから散歩コースとして荏原町が定番になり、いつしか“独立するときには、ここで店を開きたい”と思うようになりました」
パンがメジャーではない地域で、チャレンジしたい!
荏原町でパン屋をオープンするにあたり、同業者からは「もっと都心でやるべきだ」というアドバイスがあったとか。それでも頑なにこの場所を選んだのには、「パンがメジャーではない地域で、自分のパンがどれくらい人々に認められるか、チャレンジしたかった」という強い気持ちがあったと語る田上さん。
「僕のパンに一貫しているのは、添加物を使わないことと、生地を冷凍しない製法。都心部ではそういったパン屋さんは、山ほどありますよね。だからこそあえて、そういうパンをここで作り、町の人々に食べていただきたいな、と。そして自分のパンがどこまで受け入れられて、支持してもらえるか、興味があったんです」
ハードワークをこなせるのは、自分が作ったパンが町で愛される喜びがあるから
オープン当初を振り返り、当時は店の看板メニューであるバゲットやクロワッサンよりも、クリームパンやアンパンなどばかりが売れていたと語る、田上さん。「皆さん、やはり慣れ親しんだ味を選んでいましたね。でも何度かリピートしてくださるうちに、店のパンを信頼してくれてなのか、別のアイテムにチャレンジしてくれるようになって。オープンから5年目を迎えた今では、クロワッサンとデニッシュが店の人気上位に成長。僕の目標が達成されました」
しかし田上さんの挑戦は、まだまだ終わらない。「なんとなく選ばれる店ではなく、“ここのパンが食べたい”と思われる店でありたい。そのためにも、自分なりのパン作りを諦めず、丁寧な仕事を続けることを一番に心がけています」。そんな田上さんの個性が光る、人気商品を教えてもらった。
ビゴ氏の製法を受け継ぐバゲット
「カフェ・ド・ラ・ターシュ」の看板パンとして欠かせないのが、田上さんが18年間修行を積んだ名店『ビゴの店』から受け継いだ名物・バゲットだ。「フランスパンの名で親しまれるバゲットを日本に紹介したのが、レイモン・カルヴェル氏。そして彼の製法を生かしてバゲットを広めたのが、僕の師匠であるビゴ氏です。ビゴ氏のモットーは、“どこでも誰でも手に入る粉で、おいしいパンを作る”。そのために用いる製法が、オートリーズ法です」
パンの中でもバゲットに最適と言われるオートリーズ法の特徴は、まず水と粉のみを捏ねて寝かせたあと、イーストを入れて捏ね、さらに寝かせるという手順にある。「普通の作り方だと生地の完成にかかる時間は3時間程度ですが、オートリーズ法では6時間ほどかかります。さらに添加物を入れず、冷凍もしないので、前日からの仕込みは不可能。毎朝3時から、仕込みをしています」
そんなハードワークから現在、冷凍生地を使わない店はほんの一握りほど、という田上さん。しかし出来上がったパンのおいしさから、この製法をやめる気はないのだとか。「他の店のものと食べ比べてもらえば、すぐに違いがわかると思いますよ。生地の食感から、味の深みまで、全く違うんです」
そんな話の通り、しっとり感とふわふわが絶妙なバランスを織り成すバゲットは、一度食べるなり病みつきに。購入した人はかなりの確率でリピートするというのにも、納得!(220円)
14時間の手仕事がいきる、絶品クロワッサン
田上さんが個人的に一番好きだというのが、クロワッサン。その工程で最も大変だと言われているのが、“層作り”。クロワッサンの特徴でもある層は、重ねれば重ねるほど、うまく焼き上げるのが困難になるのだそう。「極限まで層を重ねるのが、僕のやり方です。層が細かければ細かいほど、重量は同じはずなのに、食感の軽さが違うんです」
またこちらもバゲット同様、生地は断固として冷凍させない。「焼きあがりまでにかかる時間は14時間と、パンの中でもダントツに手間がかかっています。これもオートリーズ法を用いていて、粉と水のみの生地を一晩寝かせてから、翌朝バターを加えています。それによって、バターの香りをより強く感じられるんですよ。生地を冷凍すれば仕込みの時間を短縮でき、つねに焼きたてのクロワッサンをお客様に提供することができる。そういう点では不利なのですが、焼きたてにもひけをとらないおいしさと、自信を持っています!」
指で掴むなり、その弾力に驚くこと必至。エアリーな生地は噛めば噛むほど、芳醇なバターの香りが口の中に充満する。(200円) クロワッサンの次に高い人気を誇るパン・オ・ショコラは、フランスの老舗「ヴァローナ」のビターチョコを使用。生地の中で2列に並んでおり、どこから食べてもチョコを味わうことができる。(220円)
「コーヒーに合うパン」グランプリに輝いたデニッシュ
もともと甘いものが大好きな田上さんの趣味は、ケーキ屋めぐり。休みの日には話題のパティスリーを訪れ、新作デニッシュのアイデアを探しているのだそう。「パンで使う具材や材料の組み合わせって、どこでも、だいたい一緒なんですよね。でもケーキは季節ごとに、新しいトレンドがある。テレビや雑誌で話題のお店を探しては、勉強を兼ねて、買いに行っています」
「スイーツの知識を生かしているのが、デニッシュ。ほとんどの店がクロワッサンと同じ生地を使うなか、うちではよりしっとりとさせるために卵を加え、差別化しています。季節限定のものを含めると20種類ほどあるなかでも、この『マロン・ショコラ』は、お子さんから高齢者の方まで、幅広い年齢の方に支持していただいています。2年前に『AGF』が主催するコーヒーのイベントに出展したら、なんとグランプリをいただいて。それまで期間限定メニューでしたが、通年で扱うように」
生地の中には、ビターチョコとマロン、2層のクリームがぎっしり。皮付きマロンの甘露煮と、きな粉&抹茶のパウダーがトッピングされている。(220円)
荏原町を代表する人気ランチは、ボリューミィなキッシュ
イートインスペースでは種類豊富なパンはもちろん、パンとサラダがセットになった「ラ・ターシュ・セット」(750円)も提供中。ランチタイムにはこのセットを求めて、多くの人々が押し寄せる。選べるメインは、惣菜パンやクロックムッシュなどがラインナップするなか、キッシュに厚い支持が集まっているそう。
「キッシュの具材は日替わりです。料理番組などを参考にして、季節感のある味わいにするようにしています。今日は、あさりと筍。普通キッシュでは味わえない食材の組み合わせを考えるのが、毎日の楽しみなんです」。お客さんから“あのキッシュ、また食べたい!”というラブコールが寄せられることも多いのだとか。
田上さんに聞く、荏原町近辺の一押しグルメ
早朝から夜まで働き詰めの日々を送るため、荏原町ではあまり外食する機会がないという田上さん。そこで、近辺のお気に入り店を伺ってみた。
クロワッサン好きなら、ぜひ!「ネモ ベーカリー&カフェ」
ニコニコしながら「ここのクロワッサン、好きなんですよ」と無邪気に、ライバル店を褒める田上さん。「自分が好きな系統のパンが揃っていて、オーナーと気があうなと。勝手に親近感を感じています(笑)」
コーヒーの深さに圧倒される「丸山珈琲」
店で出す珈琲を仕入れているだけでなく、休日にも友人と足を運ぶこともあるのだとか。「スタッフの方達の、珈琲への情熱に圧倒されます。同じ職人として、すごくいい刺激を受けます」
もっと知りたい荏原町の“おいしい”
食べログでキャッチした、荏原町のグルメ情報はこちら。
取材・文:中西彩乃
撮影:山田英博