ページをめくり、お腹を満たす

ブックディレクター 山口博之さんが、さまざまなジャンルより選んだ、「食」に関する本を紹介する人気連載。気鋭のイラストレーター瓜生太郎さんのコミカルなイラストとともに、“おいしい読書”を楽しんで。

圧巻の取材力で伝える、“立ちそば”の魅力

Vol.11『そばですよ 立ちそばの世界』(本の雑誌社)著:平松洋子

連載の第3回『肉まんを新大阪で』取り上げた平松洋子さんが新刊を出した。なるべくいろいろな書き手を取り上げようと思っているのだが、私が大好きな立ち(食い)そばの本とあっては読まずにはいられないし、紹介せずにもいられない。都内26店舗、チェーン店はひとつもない。それぞれの味を持った、立って(時に椅子に座って)食べるそば屋さんを平松さんが訪れる。どこのお店も取材で一度きり食べに行くというのではない。平松さんは取材対象のお店に何度も訪れる。それは立ちそばというお店が、1回行っただけではわからない、お客さんの日々の中に組み込まれ習慣のように訪れるお店だから。

 

“立ちそばは、街との境界線がゆるい。お客はせいぜい半径数百メートル以内で働いているひとだから、履いている革靴やハイヒールもつっかけサンダルに見える。がらがらーと扉を鳴らして入ってきては、食べ馴れたそばをさっと一杯。何事もなかったかのように、どこかへ去ってゆく”。平松さんがこう書くように、立ちそばのお店はスルッとお店に入り、オーダーしてすぐ出来上がり、ものの数分で食べてさっと出る。入る時も出る時も迷いはない。どれだけ哲学があっても決して押し付けがましくなく、お客さんの毎日の無意識とともに味わいが染み付いていく。

 

浅草橋「ひさご」の黒っぽいつゆのうまさは、柳橋「美家古鮨」直伝の“返し”にある。作ってから最低2カ月は寝かせ、返しとだしを1対8で混ぜる。醤油を入れず、だしと塩だけで作る金色のつゆが特徴的な牛込柳町の「白河そば」。立ちそばの聖地とも呼ばれた東神田「いとう」の跡地を受け継いだ「そば千」は、かつてのお客さんの舌を満足させることができるかという記憶と戦いながら、前日最後に仕込んだ“種汁”とその日出来たての“若汁”を混ぜる独特なつゆを編み出した。立ちそばの醍醐味である天ぷらやコロッケの存在。そばと並ぶサイドメニューの喜び。それらの多くが500円以内で食べることができるというすごさ。数人入ればいっぱいで、お店の外で食べることすらありなスタイル。店主の人柄。

 

立ちそばのようなそば屋さんをおいしい店として紹介することに、私たちはなぜか躊躇している気がする。でも私たちは、多くのお店が自家製麺であることや素材の気配り、歴史を知らない。取り上げられたお店は私たちの日常に染み込みすぎている。知っていても入らなかった人、気づかなかった人、まったく知らなかった人、そもそも立ちそばに入らない人。その誰しもの日常の解像度を上げ、立ちそばという当たり前になっていた食の魅力を改めて教えてくれる。おいしさを伝える平松さんの全力は今回もすばらしい。

 

『そばですよ 立ちそばの世界』
(本の雑誌社)著:平松洋子

 

イラスト:瓜生太郎