自分が体験した「森の中で読書」を都会のなかで再現

日々をあわただしく過ごしていると、やることが多くてバタバタしているうちに自分自身の気持ちをないがしろにしてしまいがち。そんなとき、まるで異世界のような非日常空間で、自分自身と向き合える時間を提供してくれるのが、高円寺にある読書喫茶室「アール座読書館」です。

基本的におしゃべり禁止の店内では、お店のなかとは思えないほど植物が伸び伸びと枝を広げ、水槽からは心地よい水音がつねに聞こえてきます。お店のテーマは「森の中で読書」。店主の渡邊太紀さんが信州の山小屋に行ったときの経験が、その下敷きとなっています。

 

「森のなかにベンチを置いて読書をしたら、ものすごく気持ちよかった。僕だけではなく人間にはみんな欠けている部分があり、それが満たされるのを感じました。そういった体験ができる場所を、都会でも再現できたらいいな……と思ったんです」と渡邊さん。

 

だから、おしゃべり禁止というお店のルールはありますが、渡邊さんがいちばん大切にしているのは、お客さんにいかに自分の感覚やその時の気分と向き合ってもらうかということ。

 

たとえば、混雑時以外は自由に席を移動できます。渡邊さんが「“どうすればいいんだろう”と迷いながら思索してもらいたいんです。そういう選択肢を見守れるのが、アール座読書館」と言うように、注文も自分のタイミングで大丈夫。ほかのお店ではありえないような包容力があります。

アール座読書館では話し声こそしませんが、それは無音ということではありません。

 

「おしゃべりができないから“無音”の場所だと思っている人が多いのですが、無音だと返って落ちつかないので、僕は音……とくに自然音は必要だと思っています。だからアール座は水槽から聞こえる水の音で満ちています」と語る渡邊さん。秋の季節には、実際に虫を飼って鳴き声を楽しむのが、毎年恒例のアール座の風物詩になっています。

店内には伸び伸びと枝を伸ばす植物たちも。

あえて入りにくい扉にすることで、現実世界を一旦リセット

“入りにくさ”を大切にしているというアール座読書館。

「普段の生活では体験できない満たされた精神状態になってほしいので、非現実的な空間に入るための切り替えが必要。気持ちが外の現実とつながったままではいけないので、がんばってお店に入ってきてもらわなければいけない」という渡邊さんは、そのために、飲食店としてはありえない、人を寄せ付けないような扉を選びました。

 

「お客さんのなかには、何度も行こうとしたけれど、なんだか怖くて入れなかった……という人も多いです。なかには、5回目でやっと入れたという人も。でも、それはたぶんこのお店に入るタイミングというのが、お客さんそれぞれにあるんだろうな、と僕は思っています」。

 

積極的なサービスはないアール座読書館ですが、それはただ放置しておくということではありません。

 

「一般的な飲食店のような積極的なコミュニケーションはしないけれども、完全に無視していると、それはそれで安らぐ空間とはちょっと違ってきてしまう。なので、どこかで気にしている。会話のやりとりはないけれど、そういった気のやりとりはあるというか。つかず離れず……それくらいの距離感が、このお店には必要なんです」と語り、スタッフにもそれは伝えているそう。

おすすめのメニューは「ブラジルブルボン」(税込650円)。コーヒーが苦手な人でも、「あれ? これは飲める」となる高品質なコーヒー。ちゃんと個性があるのに誰にでも受け入れられる魅力があります。

自分の部屋のように楽しめる、ひとつひとつ雰囲気の違う幻想的な席

ひとつひとつの席ごとに、雰囲気が異なるのがアール座の特徴。どの席も、渡邊さんが古い教会や古い小学校の写真集や宮澤賢治の童話を眺めながら、「ああ、こんなイメージなのだな」と自身の手でつくりあげました。

「“ここはこういうテーマの席”とはっきり決めているわけではありません。こちらがテーマを押しつけるのではなく、お客さんに自分が好きな場所をそれぞれ見つけてもらい、席のテーマも自由に捉えてほしい。自分の小さな部屋みたいに使ってもらえれば……」

 

狙ったマーケティングではなく、渡邊さんの“好き”が詰まったアール座読書館。その思いに共鳴したお客さんは、わざわざ他県からも訪れるそう。

 

「この店にいると、ひとりでいることが、全然寂しいことではないと感じてくれる。そういう人がたくさんいらっしゃいます」と口元をほころばせます。

引き出しのなかには、なんとジオラマが。このジオラマのもつストーリーは、隣の引き出しに隠されています。

店内に3か所ある水槽は渡邊さんの趣味。「眺めているうちに気がつくと一時間たっていた……なんていうこともあるくらい、水槽は魅する力があるもの。見ている間に心の状態がすごく落ち着いてきます」

羽根ペンやガラスペンで大切な人へ思いをつづることのできる「お手紙セット」(税込1,000円)。ワンドリンク(お好きなものどれでも)+レターセット、切手、さらには筆記具のレンタル一式を1,000円にまとめたセットメニューです。憧れのシーリングスタンプにも挑戦できます。気にいった席で書き終わったら、店内にあるポストに投函して。

約1,000冊の蔵書を手に取る楽しみも

およそ1,000冊ある蔵書は、もともとは渡邊さんの私物。なかには、子どもの頃に買った本もあるそう。

 

本棚に並ぶ本には長く愛されたことがよくわかる使用感があり、本が好きな人の本棚を見る楽しみも。「もともと古かった本が、皆さんにここで読んでもらえることで、さらに古くなるのがうれしい」と愛情のこもった目で渡邊さんは本の背を眺めていました。

店主の渡邊太紀さん

 

これからは飲食だけでなく「手紙セット」のような体験も提供していきたいという渡邊さん。「あわよくば1回の体験で人生がガラッと変わるきっかけになるようなメニューができたら嬉しいな」といたずらっぽく夢を語ってくれました。

 

普段は見逃しがちな自分の気持ちや感覚と向き合えるアール座読書館。自分の心の声を聞きたくなったら、重い扉を開けてぜひ飛び込んでみてください。

取材・文/六原ちず 撮影/柿崎真子