【噂の新店】「食堂わた」
高級食材は使わずともきちんとした和食の仕事がなされており、気を衒わずとも真っ当においしい。何気ないものが普通にあって、しかも、値段的にも雰囲気的にもリラックスして味わえる――。そんな一軒があったらなぁと、近頃の和食状況を見るにつけ思っていたところ、願ってもない店を発見! 今年9月24日、東京・新宿御苑前に暖簾を掲げた「食堂わた」がそれだ。
昼は定食、夜は居酒屋の顔を持つ同店の店主は、面ざしにまだ少年のようなあどけなさが残る櫻井航さん。28歳の若さながら、キャリアは10年余り。調理科のある高校を選び、修業先も銀座の星付き店や「赤坂おぎ乃」等々、錚々たる和食店ばかり。それなのに、高級割烹ではなく町場の定食屋?と首を傾げると、櫻井さんからこんな答えが返ってきた。
「(僕が)小学生の頃、祖父が日本料理店を経営していたんです。でも、そこはカラオケもあるような気さくな店で、地元の人たちの溜まり場みたいになっていました。日々の疲れを癒やしに訪れるサロンのような存在だったんだと思います。子供心に、その和やかな雰囲気がいいなぁと思っていたんです」と、それが料理の道を選んだ理由だとか。店は気さくでも、料理は和食の職人が作る正統派の日本料理だったそうだ。
そんな原風景が櫻井さんの心に深く焼き付いていたのだろう。限られた人しか行くことのできない高級店ではなく、誰もが気軽にふらっと入れる大衆店。それも、できれば週に2度3度と通ってもらえるような地域に根差したお店にしたい。櫻井さんの胸のうちには、そんな思いがいつしか芽生えていた。
「最初はラーメン屋をやろうと思っていたんですよ」。それなのに和食店?との問いに「ラーメンといえばスープ。で、スープ=だしの発想から、だしの取り方を覚えるには和食店がいいかな、と考えました」とのこと。そして選んだ修業先が銀座の日本料理店。18歳の時だ。ここで2年間務めた後、六本木の日本料理店で2年働いたところで、荻野聡士さんに誘われ「赤坂おぎ乃」のオープニングスタッフに。2年間務めた後「西麻布野口」の立ち上げも手伝うなど研鑽を積み、ついに念願の独立を果たしたというわけだ。
それにしても、修業先は名だたる高級和食店ばかり。予約が取れない店もあれば、1人5~6万はかかる高額店と、櫻井さんが目指す店とは、ある意味真逆。“朱に交われば赤くなる“の例えではないが、こうした一流割烹で修業していれば、畢竟、自分も同じような高級割烹をやりたくなるものだ。が、櫻井さんは、少しもぶれることなく初志貫徹。店名も「なるべく親近感を持ってもらえるように“食堂”という言葉を選びました」とのこと。“わた”は、航(わたる)さんの愛称だ。
価格にしても、努めて抑えるように心を砕いた。「アジフライ定食」1,400円をはじめ4種類がそろうランチの定食は、すべて1,000円台。中でも人気No.1は「おばんざい定食」1,800円だそうで、櫻井さんによれば「11時の開店ですが、12時前には売り切れになることが多いです」という好評ぶりだ。
が、それも納得。丸い籠の中には、お刺身をはじめ、卵豆腐や南瓜煮、焼き茄子とジャコの和え物もあれば、鶏の柚子胡椒揚げ等々10種余りの小鉢がずらり。見た目も麗しく盛り付けられたその風情はまさに和食の八寸! 夜なら、これで一杯やりたいと思う飲兵衛も多かろう。名店で培った技が随所に生かされている。
ちなみに、写真はお正月バージョン。1月は、三が日も営業する予定だそうで、初詣帰りに立ち寄るには格好の一軒といえそうだ。
ランチもいいが、本領発揮はやはり居酒屋仕様になる夜だろう。コースはなくオールアラカルト。サービス担当のスタッフはいるものの、調理はほぼほぼ櫻井さんのワンオペ状態。それゆえ、メニューの数こそさほど多くはないが、そこは少数精鋭。何をとっても安定の味わいだ。
「だし巻き卵」や「ニラのお浸し」など気取りのない居酒屋的一品もあれば「マグロの炭火たたき」や「太刀魚天ぷら青のりあん」に土鍋の炊き込みご飯のような割烹仕込みの佳品もあり、酒飲みならずとも食指が動く。いずれも、一流店を経験すればこその下ごしらえの丁寧さがうかがえる。
例えば「ニラのお浸し」。ただゆでて醤油をかけただけという安易なものではなく、“お浸し”の名の通り、湯がいた後にきちんとだしに浸し、味を含ませている。更には、上に黄色みの濃い「こだわり卵 蘭王」の卵黄をのせてビジュアル的にもひと工夫。お浸しとはいえ、インパクトのある一皿に仕上げている。
割烹料理店と違ってお椀を出す必要がない分、だしも吸い地用の一番だしではなく二番だし。櫻井さん曰く「血合い入りの本枯節と真昆布でとっています」とのことで、水出しした昆布水に鰹節を入れ、30分ほど静かに煮出してうまみを抽出している。この方がコクを出したい煮物などの料理には向ているのだ。このだしが、まさに味の要の一つ。先のお浸しや煮物、だし醤油に炊き込みご飯にと八面六臂の活躍を見せている。
だしと同様に、櫻井さんがここでやりたかったのは炭火焼き。「炭台は絶対に置きたかったんです」と一言。その言葉を裏付けるように、昼の定食に夜の一品料理にと大活躍。「炭火は、火力の強さと焼いた時の香ばしい風味が何より魅力ですね」と櫻井さん。
炭は、高知の土佐備長炭。強火で軽くサッと炙って、香り豊かに楽しませてくれるお造り代わりの「ブリの藁焼き」や「マグロ炭火たたき」各1,800円、焦がさぬよう遠火で休ませながらじっくり火を入れていく「さわら味噌幽庵焼き」1,700円等々食材や料理に応じて、炭火を巧妙に操っている。
ランチの定食メニューでもある「さわら味噌幽庵焼き」は一切れのカットもダイナミック。食べ応えもあり、しっかり漬け込まれたそれは、甘さを控えたコクのある味。日本酒はもとより、ご飯を呼ぶこと請け合い。
そのご飯も土鍋で提供。「炊き立ての白ご飯」1,600円もいいが、今の季節なら「ズワイ蟹の土鍋ご飯」3,500円~を試してみたい。
お米は群馬・川場村のコシヒカリ「雪ほたか」。友人が育てている米だそうで、一般にはあまり出回ることがない“幻の米”なのだとか。「粒立ちがよく艶があり、冷めてもおいしいお米です」と櫻井さん。これを、だしとみりん、薄口醤油で炊き、蒸らす時点で蒸してほぐしたズワイ蟹を投入。蟹の風味とエキスを米に移して完成となる。
「間人(たいざ)や越前蟹などブランドの蟹は使えませんが、1kg以下の小ぶりなものなら比較的安価に手に入る。ご飯と炊き込むならそれで充分かなと思って」という櫻井さんの言葉に深く納得。土鍋の蓋を開ければ、蟹がぎっしり。上に散らした柚子の黄色とネギの緑が初々しい。蓋を開けた瞬間、思わず小さな歓声が上がりそうだ。トッピングの蟹味噌と共にご飯としっかり混ぜていただけば、口福の時が待っている。食べきれなければ、おにぎりにして持ち帰らせてくれるせいか、1人2人でも注文する客が多いそうだ。
このような土鍋ご飯の具のちょっとした下ごしらえやあしらい、炭の扱い方、先のお浸しのだし加減などさりげない一手間一手間に、名店での修業の成果が垣間見える。が、あくまでもその体は“大衆店”。「それぞれのお店で勉強になることは多かったですが、中でも『おぎ乃』さんでは、お客様へのおもてなしの心を学ばせていただきました」と語るその言葉の奥に、日々通ってもらえるような店を目指す櫻井さんの思いの深さがうかがえよう。
※価格はすべて税込