ページをめくり、お腹を満たす

ブックディレクター 山口博之さんが、さまざまなジャンルより選んだ、「食」に関する本を紹介する人気連載。気鋭のイラストレーター瓜生太郎さんのコミカルなイラストとともに、“おいしい読書”を楽しんで。

東京で人気を集めるオーナーシェフやソムリエたちが、“昭和の店”に惹かれるのはなぜか

Vol.10『変わらない店 僕らが尊敬する昭和 東京編』(河出書房新社)著:井川直子

食を中心とした文筆家の井川直子さんがこれまで書いてきた二冊はどちらもすばらしい本だった。『シェフを「つづける」ということ』では、イタリア修行を経てお店を開いた15人の料理人が、修行後どう食に向き合い、料理を“続けた”のかを追い、『昭和の店に惹かれる理由』では、昭和から続く市井の名店10店のこだわりと魅力に迫った。そして新しい『変わらない店 僕らが尊敬する昭和 東京編』は、『昭和の店に惹かれる理由』のスピンオフとして企画された本だ。

 

井川さんは、東京で人気を集める個性的なお店のオーナーシェフやソムリエたちが、“昭和の店”をキラキラとした目で語る様子に興味を持った。味と空間、サービスをよく知り、星がつくようなお店のシェフが、何十年もやっている決して目新しくはないお店に通い続ける理由はいったい何なのだろうか、と。流行のタームがどんどん短くなり、あらゆるものが消費されていく時代にあって、若い料理人やソムリエたちは、個性を自覚的に守り続けてきた昭和の店に、憧れと尊敬、そして安らぎを求めていた。

 

個性的な熟成肉を扱う「カルネヤサノマンズ」の高山いさ己さんがルーツとする、大正生まれの祖母が昭和35年に開いた焼肉店「冨味屋」。そこに流れる考えが、本全体を要約しているかもしれない。お客さんが肉を焼く横で宿題をやっていた高山さんは、“飲食業っていうのは、やりたいことをやるんじゃなくて、やっちゃいけないことを絶対にやらない。それを守ること”だという姿勢を祖母から学んだという。清潔、安全という大前提を、グラスからエアコンのフィルター、カーテンの黄ばみまで、どこまで徹底して実践できるかということ。そして、二代目として20年前に継いだ高山さんの兄、勇男さんが言う「先代と同じでは絶対、味が落ちたと言われるもの。二割増しおいしくなって初めて、変わらないと認められる」ということ。醤油の銘柄を変え、懐石料理を学んだ経験から包丁の仕事も変えた。しかし、祖母が“あたりまえ”として守ってきた、時間と手間のかかるものはしっかりかけるということは変えていない。そして手間がかかろうと、値段は皆が安心して食べられるまま。

 

「フロリレージュ」の川手寛康さんが“フランス”を知ったというフランス菓子の「スリジェ」や、傳の長谷川在佑さんが神保町のカレー屋「共栄堂」に見る、変わり続けるオリジナリティ、松陰神社前の「マルショウアリク」の廣岡好和さんが、公園のベンチのようにさりげなく、かつ長く愛されるお店のあり方を学んだバー「バッカス」などなど。28人の食のスペシャリストによる昭和から続く28のお店。

 

変えることと変えてはいけないことに誠実でいること。丁寧で正直な仕事を続けること。こうして言葉にすると当然のことを言っているように聞こえてしまうが、実際に実行し続けているお店はそう多くない。

 

高度経済成長期の合理化、量産、拡大路線、そして消費と使い捨て文化の醸成、代用品でも及ばず偽物でも構わず済ませてしまうライフスタイル。通ってきた道に何も残らないブルドーザーのような時代と考え方を、改めなければいけないと思ってきた世代の人たちにとって、昭和から残ってきたお店たちは大事な拠り所になっている。

 

“昭和を生きてきた先代、先々代からつづく気持ちを引き継いで、家族と、あるいは個人で守ってきた小さな正しさ。それは日本を諦めていた世代にとって、やっと見つけた光である” 。井川さんがまえがきで書いたこの言葉と光を、客として味わう我々も大事にしていきたい。

『変わらない店 僕らが尊敬する昭和 東京編』
(河出書房新社)著:井川直子

 

イラスト:瓜生太郎