ページをめくり、お腹を満たす

ブックディレクター 山口博之さんが、さまざまなジャンルより選んだ、「食」に関する本を紹介する人気連載。気鋭のイラストレーター瓜生太郎さんのコミカルなイラストとともに、“おいしい読書”を楽しんで。

築地で生きた30年。何も知らない素人からお店を継ぐまで

Vol.7『築地――鮭屋の小僧が見たこと聞いたこと』(いそっぷ社)著:佐藤友美子

ついに築地中央卸売市場が豊洲に移転した。今回移転したのは「場内」と呼ばれる競りや卸売が行われる市場の方で、市場の外、一般のお客さんが買い物や飲食のできる「場外」はこれまで同様営業を続けている。同様と書いたが、場内あっての場外であった頃からは、何かしら姿を変えていくことになるだろう。

 

『築地――鮭屋の小僧が見たこと聞いたこと』を書いた、場外にある鮭屋「昭和食品」の佐藤友美子さんは、濃厚な人間と海産物と東京の歴史の詰まった場所が、違う街へと変わっていってしまう前に、築地のこと、そして築地で先輩たちから見聞きし、経験してきたことを残さねばと、1冊の本にまとめた。

 

佐藤さんは元々フリーのライターだった。金子光晴に憧れアジアを旅しては記事にすることを繰り返していた30年近く前のこと。20代後半だった佐藤さんは、年末の賑わいを見せる鮭屋の店頭で、不意に「ひとは要らないか」と声をかけ、「明日からでも来い!」との声に本当に翌日から働き始める。以来、約30年でお店を継ぐまでになった。すごい30年だ。

 

とはいえ、魚のことに詳しかったわけでもなく、魚をちゃんと見分けることも、切ることもできなかった佐藤さんは、他の人の仕事を見て、先輩に話を聞き、どんどん食べ、本当にひとつひとつ学んできた。本書は、そうやって佐藤さんが積み上げてきたことの記録である。ライターだった佐藤さんは、読者と同じ何も知らないところから始まっている。働く人たち同士で交わされる多少乱暴だったり、説明不足だったりする会話を、築地のこれまでが詰まった市場にある図書室「銀鱗文庫」で資料にあたりながら、日本橋時代を含めて100年を超える歴史を当事者の声としてまとめた。築地の日常と歴史、知識や技術に情報、そして個性豊かな人がぎゅっと詰め込まれている。

 

鮭を専門的に扱う店で働く佐藤さんにとって何より鮭が多くの縁をくれた存在。鮭という生物から、その生態はもちろん、文化や川や海の自然、鮭漁の技術や歴史、数を守るための産卵をめぐる背景など多くのことも学んでいく。南部鼻曲り、塩引、本紅、大助、どれも鮭の名称であり、それぞれの特徴を表した呼び名でもある。鮭という大きなくくりのなかにある、ご当地の鮭とそれが生まれる土地と扱う人々。佐藤さんは各地へ赴き、その思いを知ることで、鮭を売るということへの気持ちを引き締める。

 

商人と職人のまち築地で働く人たちは、それぞれ何かの専門家。扱う魚のことは誰よりもよく知っている。自分たちが食べる時は、決して難しい料理にはせず、見事な手さばきで包丁を入れた後にひとつふたつの手を加える。鯛の皮を、焼肉屋が捨てた二枚の網に広げてはさみ、クリップで止めて塩を振る。カセットコンロで身の方から炙り、ひっくり返して軽く焦げ目がついたら食べごろだ。余すところなく上手に食べること、そして食材がよければシンプルに食べるのが一番だという自信が、何気ない日常の行動の裏にはある。

 

販売から飲食のお店へとシフトしているという場外の風景はどう変わっていくのか。場外の歴史は、今年からまた新しく始まる。

 

『築地――鮭屋の小僧が見たこと聞いたこと』
(いそっぷ社)著:佐藤友美子

 

イラスト:瓜生太郎