〈食を制す者、経済を制す〉

証券マンたちは、うなぎがお好き

平成まで生きた「最後の相場師」

戦後間もない頃、証券の街・兜町に「独眼流」というペンネームで相場を次々と的中させる記者がいた。彼は、14歳で実社会に飛び込み、軍需工場の徒弟から、ドラ焼き屋、警視庁巡査、カツギ屋、業界紙記者など様々な職業を経て、最終的には証券会社の経営者となった。80年代には長者番付に登場するような大金持ちとなったが、今は知る人も少ないだろう。

 その人こそ、「最後の相場師」と言われた立花証券の石井久氏だ。2016年に亡くなったが、会社は子息に引き継がれ、今も非上場ながら独自の存在感を示している。

 

1923年福岡県生まれ。貧農の13人兄弟の5男坊。最終学歴は尋常高等小学校卒業である。ちなみに田中角栄元首相も同様の学歴の持ち主だ。卒業後は軍需工場で働いたが終戦によって、学歴がなくてもなれる弁護士を目指すようになる。まずはドラ焼き屋を開業して資金を稼ぎ、本格的に弁護士の勉強をするために上京を志した。

 

しかし、当時は食料不足が深刻な都会への人口流入を防ぐ転入制限があり、身元引受人もいなかった石井氏は、警視庁の募集に応募して上京を企てる。早速、巡査になったが、それも数年で辞めてしまう。きっかけは結婚だった。もともと世に出る野心を持っていた石井氏は「妻子は邪魔と考え、独身を貫くつもり」(『私の履歴書』)だったが、そのうち弁護士になる夢もどこかへ消え失せてしまうのである。

 

その時々で最も理に適った選択をする生き方

今度は生活のためにカツギ屋(戦後、闇物資を地方から都市へひそかに運んで売る人)を始めた。数カ月して資金が貯まると、もっと稼ごうと知人が証券会社に関係していたことから、歩合外務員に乗り出すことになった。

 

そこで一人の経済評論家と出会う。当時、フリーランスの経済評論家として名を馳せていた高橋亀吉である。『大正昭和財界変動史』『昭和金融恐慌史』などの著書をもち、近衛内閣の経済ブレーンも務めた昭和を代表するエコノミストだった。

 

石井氏は、高橋の理論を研究し、株式新聞に「独眼流」のペンネームで相場記事を書くようになり、それがよく当たると評判になった。1953年、30歳のときに江戸橋証券という会社を創業。その4年後には、東証と直接取引できる東証正会員会社である立花証券を買収。そこから本格的に証券界に乗り出し、成功をつかむのである。

 

石井氏の生き方は、今なら実現不可能な「戦後一代記」のように見える。だが、決して昔の話で終わらせることはできない。今も昔も、将来が予測不可能であることは同じだ。どんなに立派な目標を立てても、必ずしも実現するとは限らない。だからこそ、石井氏は「他人の十倍の努力をすれば負けるはずがないと自分に言い聞かせ」「その時々に最も理にかなった選択をし」「自分の頭だけで勝負してきた」(前同)という。現代でも、自分が今いる場所で、その場の境遇を十分に活かし、石井氏のように臨機応変に自分を変えながら、努力を重ねることを忘れてはならない。

 

証券マンはうなぎを好む

そんな石井氏をはじめとした証券業界の人たちは、上下する相場の世界を相手にしているだけあって、げんをかつぐことが多い。とくに兜町では、土用の丑の日に関係なく、うなぎを食べる人が少なくない。相場がうなぎ登りになるように、好んでうな重を食べるからだ。

 

そんな兜町でうなぎと言えば、まず「松よし」の名が挙がる。昔から証券マンの御用達だけに、石井氏も来店したであろうことは想像に難くない。昭和の雰囲気のある店構えで、客層はやはりオジサマが多い。店内を見渡すと、ここが兜町だからか、皆が勝負師のように見えるから不思議だ。

出典:☆まっちゃんさん

 

兜町のある日本橋界隈では「日本橋 伊勢定」もいい。こちらのうな重も多くのビジネスパーソンに親しまれている。

出典:romai343さん

それにしても、最近はうなぎが希少になり、どのうなぎ店も値段は高く、気軽に食べることができない。私なんてうなぎを食べたいと決心して、店の前まで行っても、値段を見た途端、あきらめてしまうことが多々ある。3,000~5,000円近くをランチで投じるのは、どうしてもハードルが高くなる。でも、どうせおいしいうなぎを食べるなら、やはりおいしい店がいい。そこが何とも悩ましい。

 

だから、うなぎを食べるときは、本当に気合を入れて店に入り、一口食べるごとに、うなぎの味を確認しながら集中して食べるようにしている。食べ終わると、「もっとお金持ちだったら、うなぎをたくさん食べられるのになあ」と子供のようにいつも夢想をしてしまうから、自分はやはり小市民だと思う。

 

実は今から20年前、石井久氏と兜町の道端ですれ違ったことがある。出版社で経済記者をしていたころで、石井氏の顔は知っていた。背筋をピンと伸ばした姿勢で、眼光鋭い眼差しは、知らない人が見ても、すれ違っただけで、すぐにタダモノではないことがわかる。「最後の相場師」と言われるだけあって、その風格ある姿は今も深く記憶に残っている。