【食を制す者、ビジネスを制す】

日本屈指のビジネス街で天丼を食べる

日本史の教科書にも登場する三井、三菱、住友。中でも、三井財閥は歴史と実力を共に備えた国内最大級の財閥だった。最盛期には「三井の船が世界7つの海に浮かばぬ日はなし」と言われ、アジアで唯一、アメリカの富豪ロックフェラーやイギリス王室と比べられる世界的な富豪の一人だった。

 

三井財閥は、三井高利が延宝元(1673)年、伊勢松坂から江戸に出て呉服店を開業したことに始まる。もともと商家に生まれた高利は修業のため14歳で江戸に出て商才を発揮し始めるが、長兄の俊次がその商才に嫉妬し、江戸に店を持つことを許されず、母の世話を名目に松坂に戻されてしまう。高利はへこたれることなく郷里に戻ると金融業で稼ぎ、長兄の死後、再度江戸に出て念願の店を持つ。そのとき高利は52歳。本格デビューは遅かった。

 

しかし、高利は「現銀掛値なし」「店前売り」など当時の革新的な商法で足場を築いていく。さらに江戸、京都、大阪に両替店をつくり、上方から江戸、江戸から上方への送金を結びつけることで、「幕府より大坂御金蔵銀御為替御用」を引き受け、巨利を得て豪商の地位を確立する。
その後、三井は幕末維新にあたって、勤皇派が多い京都、佐幕派が多い江戸、大阪の各地に情報ネットワークを張り巡らし、両者を天秤にかけ、生き残り策を探った。幕府の金庫番だった三井は、鳥羽・伏見の戦いを境にして、したたかに新政府側に鞍替え。これによって、財閥に飛躍するきっかけをつかむことになった。

大金持ちの趣味は家造りと庭造り

そんな三井財閥の歴代当主は当然ながら、超のつく大金持ち。茶道、書画、文雅・文芸、能楽を嗜み、絵師や陶工のパトロンとして日本文化の育成を支えた。その歴代当主の中で、現代的な意味で、最も華やかな人生を送ったと言えるのが、三井総領家(北家)10代目に当たる三井高棟だ。安政4(1857)年に生まれ、昭和23(1948)年に没するまで90年余りの長い生涯を過ごし、江戸から昭和まで日本の激動期を体験した人物だった。
高棟は番頭に実際の経営を任せつつも、三井合名社長として名目上、財閥の頂点にあり、社交に精を出した。高棟は国内外を視察し、外国からの賓客を接待。多数の勲章も受けている。当時の宮内省からの依頼を受け英国エドワード皇太子を迎え入れたときは、皇太子一行を自宅で接待するなど日本の経済界の顔として振舞った。

 

高棟には弓道、能楽など多くの趣味があったが、最も楽しんだのが家造りと庭造りだった。自ら設計した麻布今井町(現港区六本木)の自宅敷地は1万3,500坪もあった。うち700坪を占める建物は14棟もあり、ほかに茶室3棟、土蔵3棟、門番所、車夫部屋などがある大豪邸だった。また、今も残る綱町三井倶楽部は高棟が欧米の富豪に影響を受け、建築家ジョサイア・コンドルに依頼して、つくらせた迎賓館であった。ほかにも、京都別邸、箱根小涌谷別荘などがあったが、高棟の美意識が最も反映されたのが大磯の城山荘だった。こちらの敷地はなんと約3万8,000坪、高棟の建築に対する知識を総動員し、奈良・薬師寺をはじめ全国の由緒ある社寺から不要となった古材、造作物、礎石などを集め、自由な発想で邸宅の建築資材として利用し、作陶場も設けられた。増築も繰り返され、のちに国宝になる織田信長の弟、茶人織田有楽斎が創建した名茶室如庵も移築された(『三井八郎右衛門高棟傳』)。

財閥のお膝元で天丼に舌鼓

出典:koutagawaさん

こうした三井家の底力は今でも三井記念美術館で垣間見ることができる。三井財閥の本拠地は、三菱財閥の本拠地が丸の内であるのに対し、日本橋室町にある。今も残る三井本館は、日本を代表する洋風建築として、国の重要文化財にも指定されている。三井記念美術館は2005年10月に開設された美術館で、この三井本館の7階にある(美術館への入口は隣接する「日本橋三井タワー」のアトリウムに設けられている)。

 

そんな日本橋室町に仕事で足を運んだときにふらりと寄るのが、天ぷらの老舗「天松 日本橋店」だ。ランチ時は、本格的な「天丼」「てんぷら定食」が各1,200円で楽しめる。私の場合は、よく「天丼」を注文する。職人さんの手で揚げられた天ぷらは上品で、気が利いている。カウンターに座って、店内の老舗らしい雰囲気の中で食べていると、なんだか大人になったような気分を味わえる。仕事の合間にちょっと落ち着いて、一人で贅沢な気分で食事をしたいときに、お薦めだ。近隣のビジネスパーソンもよく利用する店で、交差点の一角にあるビルなので、すぐにわかる。土日もランチをやっているので、三井記念美術館に立ち寄るときはぜひ利用してほしい。合わせて三井本館を外から見ると、かつての三井財閥の力のすごさを建物の威容から体感できるはずだ。