【食を制す者、ビジネスを制す】

第2回 食通の作家兼経済評論家が貫いた、生き方の戦略とは?

社会人になりたてのころ、直木賞作家で経済評論家、食通としても知られた邱永漢(きゅう・えいかん=2012年に逝去)先生の連載を担当していたことがある。といっても、原稿はほぼ直すところがない。実務は手書きの原稿をパソコンに打ち直す仕事が主だったから、新人である私に編集作業を覚えさせるために任されたわけだ。でも、そのとき垣間見た先生の風貌や雰囲気は、社会人1年生の私にとっては非常に印象深いものだった。

一度先生の事務所にご挨拶に伺ったときのことだ。渋谷駅近くに自社ビルを構えられており、その中に事務所があった。そこで初めて実物の先生にお目にかかった。

先生はすでに70代を迎えていたが、エネルギッシュなオーラを放っていた。イメージとしてはお金持ちの華僑のような雰囲気、肌はつやつやしていて、温厚そうな表情をよく見せる。連載を何本も抱え、世界を駆け巡る有名な作家はさすがに大人物だと思った。私は緊張しつつ、挨拶をしたあと、先生から頂いたのが先生のサイン本とネクタイだった。

銀色のマジックペンで自著の見返しに「長いトンネルを抜ければ、アジアの桃源郷」といった文句をすらすらと書かれ、最後に私の名前を書いていただいた。そして「この中から好きなネクタイをもっていきなさい」と言われ、ブランドもののネクタイをもらった。打ち合わせのあと、「では食事に」ということで、先生のあとをついて行ったのだが、それから先が新人の私には驚きだった。

 

出典:お店より

 

先生が若き日の私に教えてくれた

北京ダックの食べ方

 

確かプラチナゴールドのような色だったと思うが、ロールスロイスに乗せていただいたのである。運転手付きのロールスロイスはすべるように駐車場から出発し、道路に出ると他の車を圧倒するようにゆっくりとしたペースで進んでいく。さすがロールスロイスだけに、右折するときでもウインカーを出せば、こちらは待つことなく、対向車が向こうから止まってくれる。

行きついた先は高級フレンチレストラン。そこで骨付きの鴨肉をいただいたのだが、食べ方がよくわからない。私はナイフとフォークで悪戦苦闘しつつ、結局は手でしゃぶりついてしまった。でも、ふと見ると、先生も手でしゃぶりついている。先生がそうなら、自分も手でいいのだと思ったが、骨をしゃぶっている先生の姿は、獰猛なライオンが肉を食らっているように見えて、やさしい笑顔とは裏腹の先生の本性をふと見た思いがした。

邱番会という先生の担当者や知人が集う食事会でも、その末席を汚したことがある。会場となった銀座の中華レストラン「天厨菜館 銀座店」は先生が経営されていた店だった。出席者の中で、20代は私一人。中華の本格的なコース料理を食べたことのなかった私は、メニューにあった北京ダックが出てくるのを楽しみにしていた。ところが、そろそろデザートが供されようとしているのに、北京ダックが出てこない。そこで、私は意を決して隣の大人の人にこう訊ねたのである。「北京ダックはまだなんでしょうか」。その大人はなぜかきょとんとしている。そしてこう言った。「私も君も、もう食べたよ」。

北京ダックといえば、焼いたものが丸ごと出てくると思っていたのだが、私は知らず知らずのうちにすでに食べていたのである。それは北京ダックの皮にネギ、キュウリと甜麺醤を加えて小麦粉でつくった薄餅で巻いたものだった。そのとき私は初めて北京ダックの食べ方を知ったのである。

 

 

”他人と違う”を選んだからこそ

成功した戦略的人生

 

先生は日本で活躍する作家としては異質な存在だった。1955年、小説『香港』で直木賞を外国人(台湾出身)で初めて受賞した。そこから小説一本でいくと思いきや、株式投資に手を出し、上昇株をよく当てるので株の名人と呼ばれるようになった。

さらに実体験に基づいたビジネスや資産運用の経験を披露し、次第に世間からは「カネ儲けの神様」として教えを請われるようになった。食通、旅行通としても知られるが、直木賞作家ゆえ、カネ儲けに手を出すなどもってのほかと仲間の作家からは批判もあった。

でも、先生はどこ吹く風。考えてみれば、直木賞作家がおカネ儲けの神様に転身したことは後にも先にもなく、先生の「場所」は独自に切り開かれた、ほかに誰もライバルがいない、まさに独壇場だった。

文筆業と並行して実際のビジネスもしていたため、そのビジネス観は独特。香港にも自宅があり現地の空気を肌で感じていたから、先生の書いたビジネスの話や中国レポートは、学者やジャーナリストのそれとは一味違うものとなった。しかも先生の指摘が独特で的確だったから、多くの出版社が重宝した。

先生はほかの作家とは「違う場所」で仕事をしたからこそ、成功したと言えるかもしれない。では、本人は果たしてどう考えていたのだろうか。

「若い頃、『私はタダの人ではない』と自分にいいきかせて、人生の岐路に立った時、安易な道より険しい道のほうを選んできた。そして作家という職業についたときも、とりわけ自分のような職業は人と同じことをやっていては駄目だという意識があった」(『鮮度のある人生』)

そう、先生は自分の生き方についてずっと戦略的だったのである。

出典:お店より