【映画のあの味が食べたい!】
意図せずに、映画はいろいろなことを教えてくれる。恋愛物語を見てたはずなのにモーニングコーヒーの入れ方についてウンチクを覚えたり、カクテルシュリンプの間違ってるけどイカした食べ方をまねしたり。
とある場面のそれがどんな味でそのときどんな存在であるのか。映画のストーリーから思い起こされる食の遍歴(ログ)。それもまた美味しい。
『ブルックリン』のソーダブレッドとアイルランド料理
エイリシュはミス・ケリーに自らの不貞を揶揄されたとき、大きな決断に辿り着く。
「忘れてた」
「忘れてたですって? 何てことを……」
「ここはそういう町だった。私の名前はエイリシュ・フィオレロ」
少々、乱暴かもしれないが、映画『ブルックリン』は、若き日に読んだある本の一節に帰結していく。“叱るときはゲンコツでぶん殴れ”。これは当時、アイリッシュのステレオタイプとされていた。ハードワーク、肉体労働をいとわない彼らのメンタリティを象徴する一節だ。エイリシュからもその芯の強さを感じるとともに、素敵な女性だと思うのだった。
とか言いつつ、若い頃の自分がこの作品を見たとしたら、エンディングロールまで見届けられなかったんじゃないだろうか。ケツが青いままでは、アイルランドの田舎町に生まれ育った若い女性エイリシュをヒロインとした恋愛物語が、いまいち腑に落ちなかったに違いない。
ちなみにブルックリンを舞台にした映画のデートスポットといったら、コニーアイランドは鉄板のひとつで、ここでもそれは外していない。とくにビーチで水着になるシーンは、田舎の純朴な娘が都会の女になっていったことをよく表していた。
もちろん、単純なホレたハレたの青春映画ではないのだけれど、男性側からしたら、故郷の男と新天地の男との間にいるエイリシュの貞操観念に対してやるせないものを抱かずにはいられない(かもしれない)。さらにアイルランドのジム、ニューヨークのトニー、2人の男がともに彼女に対して誠実で一途なものだから、なおさらだ。
しかし、人生の過渡期にいる今の自分は、場所や環境、男をチョイスしていくエイリシュという女性の真剣な生き方を理解することができる。人生に「もしも」の逆サイドは存在しない。しかも故郷を後にして、移住したり上京したりする者にとっては、常に何かをチョイスするということに迫られ、それは正しいと正しくないとで割り切れるほど単純なものではなかったりする。
心の隙間を埋めてくれた懐かしい料理
大切な家族や美しい景色に別れを告げ、右も左もわからない大都会でホームシックになるエイリシュ。そのとき、背中を押してくれたり手を差し伸べてくれたりするのは、フラッド神父や寮母のキーオ夫人といった、自らと同じようにアイルランドから遠く離れてやってきた同郷の人びととテーブルを囲んで食べるアイルランド料理だった。それだけが普遍的だった。
ささいな噂すらすぐに知れ渡り、いつもどこかで見張られているようで、生きにくく感じていた田舎町。しかし、そんな場所で小さい頃からずっと食べてきた味は、とても懐かしい。不格好なジャガイモにブラッドソーセージ、そして無発酵パンのソーダブレッド。独特の色をしたパンは、エイリシュが以前に働いていた、ミス・ケリーが営む食料品店にも並んでいたのと同じ味なのだろうか。口にしたことがないその食材にも、こちらはいつのまにか感情移入してしまう。
実のところ、伝統的なアイルランド料理というのを食べたことがない。恰幅のいいマスターが切り盛りしていた目黒にあったパブ、ブラックライオンはどうだったか。大都会・東京へと移ってきたヨーロッパの人たちが夜な夜な集って黒ビールで乾杯していたが、あそこはブリティッシュパブだった気がする。
エイリシュが食したようなアイリッシュフード探し。ロコスポットを出て、知らない街を散策する。だいたいカフェやパブに立ち寄れば、その街のことを垣間みることができる。ということで、まずは本場のアイルランド人バーマンが注ぐギネスが堪能できるという、代々木の「アン ソラス」に行ってみるとしようか……。アイリッシュが気をよく鼻歌を歌いながら懐かしい味を堪能しているかもしれない。
映画『ブルックリン』のエイリシュや多くの移民がそうであったように、もはや戻ることはないかもしれないと覚悟しても、チャイルドフッドの原風景は懐かしい味とともに心から消え去ることはない。世界中を人びとが流浪するその数だけ、故郷の料理も旅をし、どこかに流れ着いて伝承されていっているのだ。そして、その場所でホームシックになった誰かの背中を押してくれているに違いない。そういうお店探しもまたおいしい。
■作品紹介
新天地と故郷との間で揺れ動き、そして成長していくひとりの若い女性・エイリシュをヒロインに、移民時代の中で懸命に生きる人びとを描いた作品。1950年代、再び多くのアイルランド人が祖国を後にしてアメリカはニューヨークへと移住していった。エイリシュの行く末を想う姉ローズの献身と、それを象徴する姉妹の往復書簡が心に残る。
アイリッシュのシンボル、クローバーカラーのグリーンを基調としたレトロなファッションをはじめとして、街の風景や当時の風俗もノスタルジックで、スタイルサンプルとしても参考になる。
『ブルックリン』 ブルーレイ発売中:¥1,905+税
発売元:20世紀フォックス ホームエンターテイメント ジャパン