職人・佐伯裕史の美意識を随所に感じる江戸前の寿司

寿司職人の佐伯裕史さんは、17歳から割烹料理店で働き、北新地「鮨 のぐち」で修業を積んだのちに36歳で大阪・北新地に自身の店「鮨 さえ喜(さえ㐂)」を開いた。素材、味、盛りつけ、そして心を尽くしたもてなしで、瞬く間に関西No.1と評されるようになる。2017年には「食べログアワード」のブロンズを、2018年にはシルバーを受賞するなど食通からの評価も高く、すぐに予約の取れない人気店に。

関西寿司界のトップランナーとして⾛り続けた彼がその栄光を捨て、48歳となった今、東京進出を果たす。

「大阪で一番をとった。次は東京で勝負する」

「鮨 さえ喜(さえ㐂)」の大将・佐伯裕史さん。藍染めの作務衣がトレードマーク。

東京出店の理由を聞くと「江戸前寿司の職人として、大阪では一番をとった。だから東京でも勝負する、そういうことです」と佐伯さんは答える。東京で修業を積み地方に店を持つ寿司職人は多いが、関西で修業をした職人が東京に進出する例は少ない。

 

「東京の人は江戸前寿司にものすごくアイデンティティを持っていて、寿司は関東だという矜持がある。けれども、おいしいものは『おいしい』といってくださるのも東京の人だと思っています」

 

銀座という立地を選んだ理由を、「花街にどんと構えるのが寿司屋のかっこよさ、粋だという考えがあります。それに北新地の店を閉めて東京に出店するのですから、『すきやばし次郎』さん、『きよ田』さんなど、有名店が立ち並ぶ銀座でなければ大阪のお客さまが納得しません。東京のど真ん中で勝負をかけるからこそ『それやったら行ってこい』と送り出してくれたのです」

全8席の白木のカウンター。日本を代表する左官職人・久住有生氏が施した壁のしつらえが光る。

細部にまで心を尽くした、つまみと酒に酔いしれる

お任せコース(40,000円)から、お椀「蒸し鮑」。沈金・蒔絵で加飾した輪島塗のお椀も素晴らしい。

メニューはつまみと握りで構成される「お任せコース」のみ。つまみのおいしさに定評があり、佐伯さんの発想力が光る季節の品々で訪れた人を魅了する。

この日、最初に供されたのは「蒸し鮑」。千葉県産の活き鮑を10時間ほど蒸し、昆布と酒と塩だけで仕上げたお椀だ。極めてシンプルにうまみだけを立たせており、鮑を「食す」というよりは「飲みほす」という感覚に近い。滋味深く、身体に染み入るような味わいだ。

華麗に装飾された輪島塗のお椀は、約300年前に作られた江戸中期の作品。歴史を感じるものから、現代作家の青田買いまで、コツコツと買いためた器も見どころのひとつだ。

初鰹で仕込んだ酒盗を、戻り鰹に合わせた「戻り鰹、初鰹の酒盗和え」。

鰹と酒盗を合わせたひと皿は、毎年2度の楽しみ。戻り鰹に合わせた酒盗は、初夏に手に入れた初鰹を使って仕込んでおき半年ほど寝かしておいたもの。同じように戻り鰹を使って酒盗を仕込み、初鰹に合わせる。

手前にある明日葉を使ったソースは、やや葉のかたちを残した仕上げ。奥には黄ニラ、叩きオクラ、わけぎ、京ネギ、土生姜を和えた薬味を添えている。

「酒盗と明日葉ソースをそれぞれ味わっていただいてもよいですし、すべて混ぜ合わせてもおいしく召し上がっていただけます。お客さまのお好きなように楽しんでください」

大将が見繕った日本酒も楽しみのひとつ。写真の徳利は約250年前のものとされる古九谷、お猪口は江戸切子。

大の日本酒好きという佐伯さん。若い頃から酒蔵をまわっており、長年のつき合いから限定酒も揃う。「日本酒で」とお願いすれば、その日のつまみや握りに合わせた最高の酒を選んでくれる。

凛とした佇まいが美しい、流線型の粋な握り

握り「小鯵」。寿司台は十三代目・館林源右衛門作の古伊万里で、鳳凰が描かれている。

ひと通りのつまみを堪能したら、握りの時間。佐伯さんは伝統的な「本手返し」から、2つの工程を省いた独自の握り方をする。基本は大切だが、その技術を身につけた上で「僕のなかでは必要ない」と判断したという。

鯵や小鰭(こはだ)は、流線型に握るのが粋。これは、江戸時代の粋な遊び人が髷を少し曲げたことに由来するそうだ。目の前にそっと差し出された握りの美しさに胸が高鳴る。

生姜と芽ネギ、そして鯵をのせて握り、最後に醤油をひと塗りする。

小ぶりの鯵を選び、片身で一貫を握っている。合わせるのは生姜と芽ネギだ。

「このサイズの鯵は身がねっとりとしていて、光り物らしい香りと脂をまとっています」と佐伯さん。口に運ぶと鯵のうまみが広がり、生姜と芽ネギが爽やかな香りを添える。赤酢を使ったシャリは、店の顔。一粒一粒がしっかりと立ち、噛んだとたんに“はらり”とほぐれる。追いかけるように咀嚼すると、見事なバランスでネタと一体になる。

最上級のマグロに、江戸前の仕事を施す

マグロを醤油に漬ける。この日の漬け時間は約1分。

マグロの品質には絶対の自信を持っており、「マグロの漬け」は同店のスペシャリテ。この日のマグロは青森県の三厩(みんまや)産で、1分ほど醤油に漬けて仕上げている。包丁を入れたときに、その個体の水分量や特性を見抜き、切る厚さと漬ける時間を決める。

 

「土台はシャリです。シャリと合わせたときに完璧なバランスになるよう“仕事”をするのが江戸前の技法です。新鮮な魚が手に入る現代にあって、生で食べるよりも仕事を施した方がおいしいと認めさせなければいけない。保存の意味合いが強かった従来のやり方を踏襲するだけではダメなのです」

握り「マグロの漬け」。色鮮やかな赤身を、鞍掛(くらかけ)という形に握っている。寿司台の絵柄は富士山。

艶のある美しい佇まいに、思わず見惚れてしまう。そのまま頬張ると、ねっとりとした食感とともに、マグロの酸味と甘味、醤油の香り、そしてシャリが渾然一体となってほどけていく。噛むほどに味わいが広がり、飲み込んでしまうのを躊躇するほどだ。

 

佐伯さんのもとには、最高級のマグロが届く。その理由を「浮気をしなかったから」だという。

「17歳の坊主のころからつき合いのある、豊洲の仲卸から仕入れています。マグロで有名な仲卸はいくつかありますが、メディアで評判の店に職人はすぐに流れてしまう。でも、本当によいマグロを10本仕入れたとして、一番いいマグロをまわしてもらえるのはトップの寿司屋だけ。僕が店をはじめたとき、優先順位は10番以下だったと思います。けれど、浮気をせずに長年つき合いを続けた結果、今は僕がトップ。『一番いいやつをくれ』といえる関係になりました。連れ添った伴侶を捨てて浮気をする職人が、どれほど愚かか。警鐘をならしたいですね」

 

実はこの日は、台風が過ぎ去った翌日。この状態で生マグロを持っている店が、日本にどれだけあっただろう。

現在48歳、寿司職人としての第二幕がはじまる

生粋の職人だが、人柄はとてもフレンドリー。軽快なトークもファンを惹きつける理由のひとつ。

江戸前の仕事に誇りを持ち、本物のおいしさを追求し続けてきた関西の寿司職人。北新地の店を閉めただけでなく、大阪の自宅も売り払い、何億円もかけて東京・銀座に店を構えたその意気込みは、“殴り込みにきた”といっても過言ではない。

 

「ダウンタウンの松本人志さんが『大阪の芸人は2度売れなければいけない』とおっしゃっていますが、僕も同じ気持ちです。今まで通りに北新地で店を続けていたら、そこそこの暮らしができたと思います。それでも、すべてをゼロにしてまた一から勝負をかけたい。自分自身、そこにおもしろさを感じているのです」

現在48歳、寿司職人としての新たな幕が上がる。

ハートの形の窓は、北新地時代からの「鮨 さえ喜(さえ㐂)」の目印。

※価格はすべて税抜

 

取材・文:梶野佐智⼦(grooo)
撮影:大鶴倫宣