キーワードは「幸せを共鳴すること」。働き方、お店作りを改革し名店に

蒲田で4代続く「初音鮨」が、客足もまばらな場末の寿司屋から、世界中より予約の入る名店になるまでの奇跡のストーリーを描いた『蒲田 初音鮨物語』。今年初めに出版されて以来、大変な評判となっている。「初音鮨」は本を持参するお客様で夜毎賑わっているという。本の著者である本田雅一さんと主人・中治 勝さんに、名著の誕生秘話、そして初音鮨の現在と未来を語ってもらった。

女将が気づかせてくれた、「最高の寿司を作る」ということ

左から、初音鮨の店主・中治 勝さん、『蒲田 初音鮨物語』の著者・本田雅一さん。

 

本田雅一さん(以下本田):私が初めて初音鮨さんを訪れたのは3年前の夏でした。「夏には夏のマグロのおいしさがある」と、勝さんがおっしゃったのが印象的で、何よりすばらしくおいしかった。それですぐに貸し切りで予約をさせていただき再訪しました。そうこうしてお話ししていくうちに、僕は食の分野には門外漢ですけれど、お二人の人生に関わりたいと強く思うようになり、本を書くに至ったんですね。私が伺ったときはすでに、超繁盛店だったわけですが、失礼を承知で“場末”の初音鮨の様子をもう一度教えていただけますか?

中治 勝さん:1893年に東海道大森は三原通りにて創業の「初音鮨」の4代目。1997年に現在の店舗で営業をはじめ、今年で22年目を迎える。

 

中治 勝さん(以下中治):曾祖父の代から100年を超えて続く寿司屋の暖簾をなんとか守りたいの一心でした。大学卒業後、銀座の大型割烹で10年修業を積み、実家に戻りました。それでお通し、お造り、煮物椀、焼きものや揚げ物、最後に5貫ほど寿司をつまむというような流れで出していました。接待にお座敷を使うお客様が多くて、カウンターはいつでも入れるというので重宝されたりして(笑)。その場で鯛をおろして鯛茶漬けにするなど、お客様の要望に応えるというスタイルに、なんの疑問も感じていませんでした。

本田:そんな初音鮨が生まれ変わったのは、実は女将であるみえ子さんの病が原因だったんですね。

 

中治:はい、女将が乳癌になりまして、術後の5年生存率10%と言われ、考え方がすっかり変わりました。「限りある命、今日死んでも後悔しないように、今日こそ最高の寿司を出そう、みえ子に最高の寿司を出す姿を見せよう。つけ場という最高の舞台を提供しよう」と。それは彼女が生きてきた証でもあり、女将にスポットがあたればいいなと思ったんです。

本田雅一さん:IT、モバイル、オーディオ&ビジュアル、コンテンツビジネス、ネットワークサービス、インターネットカルチャー。テクノロジーとインターネットで結ばれたデジタルライフスタイル、および関連する技術や企業、市場動向について、知識欲の湧く分野全般をカバーするコラムニスト。

 

本田:結果、二人で8人のお客様を1日2回転で迎える、初音劇場が始まったんですね。

 

中治:まずは自分が寿司に真剣に向き合ってきたのかと自問自答しました。そこで、何でもできるということは、何もできないと一緒ということに気づいたんです。一点集中してその一点を突き抜けないと、ブレイクスルーできないと。そうして握りだけで表現する方法に行き着きました。例えばシャリ、懐石で「あなたのために炊きました」という志はすばらしいですよね。シャリが命である寿司屋がやらなくてどうすると思ったわけです。惚れ込んだ農家のお米を自家精米して吸水させて羽釜で炊く。客前で酢を落としてシャリを切り、生まれたての寿司飯を人の一生に見立て、温度も湿度も高い状態から次第に枯れていく様を、見合った魚を合わせながら、お客様と一緒に楽しむ。

出典:代々木乃助ククルさん

本田:だから初音寿司の握り寿司にはストーリーがあるんですね。表紙の写真、実は、勝さんと私の手なのですが、握りを直接手渡している。これも勝さんの原体験に基づくおもてなしですね?

出典:代々木乃助ククルさん

中治:今思うと私自身が祖父や父から知らず知らずのうちに食育として学んだものだったんですね。半端な切り身をぱっと切って、さっと握って手渡してくれる。お醤油なんかつけちゃダメだって、舌の上で転がして温めて、目つむってよく噛んで、鼻で香りを抜いていくんだっていわれたんですよ。それをお客様にも体験してもらいたくて。例えばコハダ。お皿を65℃に温めてコハダをのせて、骨のカルシウムが溶けて旨みになり、塩、酸、脂の甘みのバランスが取れた瞬間に舌の上にのせ、目をつぶって5秒してから噛んでくださいって言うんです。

出典:ぴーたんたんさん

本田:体験したことのある人間としては、話を聞いているだけで唾が出ます。そうした原体験と、物事を理論的に組み立てる理系の考え方が合わさって初音鮨ができているんですね。こんな寿司屋ないですよね。こうして自己実現のためにしたことが、次第にお客さんをも幸せにしていった。幸せの空間にこのカウンターがなったんです。でも当初は声をかけづらい、気難しい親方のような雰囲気もあったと聞いています。ガラケーの時代には、携帯を出しておくだけで怒られるみたいな(笑)。

中治:「女将のために」みたいな意識が強すぎたんです。いい子でいたいというか。度が過ぎると力みがお客さんに伝わってしまう。ちょっと緩くないとお客様にも緩んでもらえないですよね。

 

本田:それにはしばらくかかりましたか?

 

中治:4、5年はかかりました。お客様には女将が死のうが関係ないと、あるとき気づいたんです。お客様はただ幸せになりたくて来ている。それがわかると段々幸せが共鳴してくる。それが頑なだった自分の心を少しずつほぐしてくれました。

 

本田:知らない人同士が並んでいるのに、一緒に来たグループのように幸せを共有できる。あれはすごい体験ですよね。それこそが本を書く原動力になった気がします。ところが、順風満帆だった折、2018年3月、女将さんの癌の再発がわかった。

 

中治:はい、頸椎や腰などの骨と肺にも転移してまして、僕は廃業を考えました。女将の笑顔、お客さんの笑顔だけに集中しようと14年やってきたんですが、歳を取れば終わりはあると。今回で寿司屋はやりきった、二人でできる限度はここまでだ、あとは猫カフェでもしてゆっくりと過ごそうと。

 

本田:未練はなかったのですか?

 

中治:はい、僕のレシピやノウハウにも未練がないと自分でジャッジしたわけですが、“死にレシピ”になるのなら、これから寿司職人を志す人たちに用立ていただけるのではと次第に思えてきまして。

若い職人に未来を託す、新しいお店作り

本田:第3楽章は、いわば「解脱」ですね。外へ向けてどんどんシェアしていこうという方向に変わっていったんですね。これにはびっくりしましたよ。だって店辞めるかもしれないって言っていたのに、次きたときに「見せましょうか」っていうので見たら、何にもないんですから。どうしたんですかって言ったら「いや今度二つ作る」と。一軒のお店の中に二つのカウンターを!

食後の時間をゆったりと過ごす、カフェ&バースペース。プライベート感のあるモダンな空間だ。

中治:一つは食後にゆっくりお茶やお酒を呑んだり語らったりする空間として使っていただこうと。

 

本田:よっぽど借金が好きなんだと思いましたよ(笑)。でも、二つのカウンターが働き方改革にもつながったんですよね?

 

中治:はい、若い子も7~8人入れましたから、15時、17時、19時と3回転させることができるようになりました。今は料理を含めて全30品ほどを2時間でお出しして、場所を移してゆっくりしていただく。

本田:料理を含めたコース仕立てにしたのはなぜですか?

 

中治:握り限定にしてしまうと、若い子たちが、季節の移り変わりに対する出会いの妙みたいなものが経験できないですから。仕込みにしても、今はグラム単位、秒単位で測らせている。でもこれは単なる僕の好みだから、必ず自分のレシピを見つけなきゃだめだよって言っているんです。

 

本田:寿司職人として何かを追求していくと、もっと新しいものが生まれるんだっていう発想ができるようになるといいですね。

 

中治:僕がお客さんからいただける笑顔とか熱とか、拍手とか。それを若い子たちにも肌で触れてほしいんです。笑顔をいただくということが、どんなに楽しいかということの原体験を初音鮨で覚えてもらえれば。

『蒲田 初音鮨物語』(KADOKAWA刊)中治夫妻の半生を通じて、世界的企業の成功と衰退の歴史にも通じる普遍的なビジネスの教訓と衰退を描く。

 

本田:すばらしいですね。僕自身がこの本を書いていて変われたなと思うのは、自分がなんで仕事をしているのかという原点に立ち返れたこと。文章を読んでくださった方が、気づきを持ってくれたり、なかには「人生が変わりました」とメールをいただいたり……。物書きにとってお客さんが誰なのかといえば、読者なんです。仕事を発注してくれている編集部ではないことを、ともすると忘れがちです。今回、生の声をたくさんいただいたことで、読んでくださっているということが自分のモチベーションだったんだということを再認識できました。その意味でも大変に感謝しています。

 

中治:いえいえ、本という形で初音鮨を残していただいたのはこちらの何よりの喜びです。ちょっと種明かしし過ぎたきらいはありますけれどね(笑)。皆さんに触れていただくことで、何かの役に立てれば本望です。

撮影:森山祐子

取材・文:小松宏子