【運命の食材】

四半世紀の間、付き合い続けたチーズ〜リストランテ アクアパッツァ 日高良実さん

昨今の日本の洗練されたイタリア料理の礎を作ったともいえる、「リストランテ アクアパッツァ」の日高良実シェフ。北から南までイタリア全土を回って修業を積み、南イタリア・カンパーニャ州「ドン アルフォンソ」でアクアパッツァという魚介料理に出会って感銘を受け、その名を店名に冠した話はよく知られるところだ。イタリアから帰国して今年で29年になるという。西麻布に初代アクアパッツァを創業したのは1990年。世はバブル真っ只中、我も我もと、アクアパッツァの勢いはとどまるところを知らず、そんな時代だった。

 

スターシェフと実力派生産者との出会い

その頃から、四半世紀近くも使い続けている素材がある。岡山の吉田牧場のモッツァレラチーズとカチョカバロがそれだ。今でこそ、国内でモッツァレラチーズを作る工房も珍しくはないが、吉田牧場はその先駆けだった。1990年代半ばにはフレッシュのモッツァレラチーズも盛んに輸入されるようになってきてはいたが、鮮度という意味では決して満足のいくものではなかったのだ。

「イタリアで食べたモッツァレラチーズのおいしさが忘れられなくて。そもそもでき立てを食べるチーズですから、鮮度が命。日本に入ってきているモッツァレラではどうしても限界がありました。そんなときに、吉田牧場の存在を知り、矢も盾もたまらず電話をしたんですよ」と日高さんは当時を振り返る。

 

吉田牧場の創業者・吉田全作さんは北海道大学で畜産を学んだのち、東京の農業関係の会社に就職するも、やりたいことが見えず、脱サラ。故郷・岡山に戻り、酪農を始めたが思うようなチーズが作れず、フランスへ渡り、チーズ作りに何より大切なことは乳質風土ということを学んだという。帰国後、乳糖とたんぱく質の含有量が格段に高いブラウンスイス牛に切り替え、改めてチーズを作り始めた。そして、吉田さんのチーズが偶然にもサルデーニャ島出身の外交官の目に留まり、彼の指導を受けることで現在のモッツァレラやカチョカバロが完成したのである。

 

一方、吉田さんもまた、日高さんからの電話を、「スターシェフが自らかけてきたのですごく驚きました。しかも、とても礼儀正しくて。早速モッツァレラなどを送らせていただきました」とよく覚えているという。その後の吉田牧場の発展と、日本のイタリア料理の発展を考えれば、それは運命の出会いだったと言えるだろう。

 

しかしながら、選択肢のなかった当時はいざ知らず、ものにあふれた現在まで、これだけ長きにわたって日高さんが吉田さんのチーズを使い続けるには理由があるはずだ。それは何かと聞いてみると、「瑞々しいフレッシュなテクスチャーはもちろんですが、ブラウンスイス牛の乳の甘みが噛みしめるほどに広がり、心地よい余韻となって残るんですね。そして何より、日本の風土を大切にした吉田牧場のチーズは、日本という国で作る私のイタリア料理には、ごく自然になじみます」との答えが返ってきた。

 

新生アクアパッツァが目指すもの

 

今回披露してもらったモッツァレラチーズの前菜は、農家から送られてくる季節の野菜を添えただけのシンプルな仕立て。「チーズそのものの美味しさを堪能してもらいたいので、敢えて極力、手を加えないというスタイルをずっと貫いています。調味はオリーブオイルと塩だけ。完成度が高いので、それで十分なんですね」とも。はなやかなガラスの器の中心に、モッツァレラチーズが鎮座し、周囲には紅心大根、にんじん、プチトマト、ブロッコリーなど、旬の野菜が彩りよく散らされている。ナイフを入れるとじんわりとミルクがあふれ出る。

もう一品はカチョカバロを使った料理だ。カチョカバロもモッツァレラと同じく、温めた乳にレンネット(凝乳酵素)を加えて固めたカードを60℃くらいの湯の中で練って仕上げるという手法で作られる。水分量の多いカードから作るのがモッツァレラで、水分量が少ないカードを使用するのがカチョカバロというわけだ。できたてはまるで豆腐のように柔らかいが、干して水分を抜きながら熟成させることで、セミハードタイプのチーズとなる。そのまま食べてもおいしいが、加熱して、とろーりと溶かして食べるのが醍醐味だ。

この「カチョカバロとラディッキオのグリル」も、20年以上続くロングランメニュー。来ると必ず頼むというお客様もいるほどだそう。フライパンの中でとろけながらこんがりと焼き目がついていく様を見せてもらうと、もうそれだけで何もいらないと思えるほど魅惑的。ホロ苦さがごちそうのラディッキオもこんがりと焼いて、薄切りの豚ロース肉のグリルを添えれば完成。最小限に手を加えた上質な素材を一皿の中に組み合わせる――まさに、日高さんの料理の哲学を体現した一品だ。

「縁あって、17年半営業していた広尾の店から、この4月に外苑前に移りました。もう一度、素材にしっかりと向き合い、持ち味をストレートに引き出す。旬を大切にしながらシンプルに素材同士を組み合わせる。それは、イタリアでの修業時代に感じていたことですが、29年の月日を経て、ますますその方向性を究めたいと思うようになりました。新生アクアパッツァではそんな料理を目指しています。ま、ようするに旨いもの屋ですよ」と日高さんは笑う。

何十人もの弟子たちを輩出し、本場のエッセンスにあふれながら、軽やかで食後感のすがすがしい日本ならではのイタリア料理の裾野を広げてきた日高シェフが、原点に戻ってイタリア料理の魅力を見つめなおす新生アクアパッツァ。これからが一層楽しみだ。

撮影:松園多聞